今日の個所を読まれて、どう思われましたか?

1に、どんな場合でも、自分で判断しないで、主の指示を仰ぐことを怠らないことを教えられます。

ギブオンの住民は、自分たちが死ぬことを回避するために、必死で策略をめぐらしました。

一方、ヨシュアと族長たちは、疑いをもちましたが、主の指示を仰ぐことをしないで自分たちで判断し、契約を結んでしまいました(14節)。

ギブオンの人たちが仕組んだ、ぼろぼろになったパン、破れた皮袋、古びた服装やはきものなどの物的証拠をみて、ギブオンの人たちが遠い国の人たちであるとの偽りの証言を信じてしまったのです。

しかし、ヨシュアと族長たちは、ギブオンの人たちに騙されたとはいえ、主の前に契約したことを実行しました。つまり、ギブオンの人たちを殺すことをせず、生かしておきました。

私たちも、ある出来事が起こって判断を求められた場合、自分たちの判断の範囲内にあると考えて、あえて主の指示を仰ぐことをしないことがあります。

主に対してだけでなく、会社なら上司に対して、あるいは、夫婦なら夫に対して、指示を仰ぐことをしないで失敗することがあります。

ヨシュアは主に対して指示を仰ぐべきでした。エバは、アダムに指示を仰ぐべきでした。

教会でも同じですね。

それは好意から出る場合が多いと思います。上司を煩わせたくないとか、主人を煩わせたくないとか、牧師を煩わせたくない、という理由です。

そのほかに、自分の面倒を省くという消極的な動機もありますね。あるいは、他の意見を言われるかも知れないので指示を仰がないという積極的な動機もあります。しかし、秩序として、指示を仰ぐことは大切です。それを省くことが習慣になってしまうと、大きなトラブルに発展してしまうことが多いのです。

さて、それはそれとして、私は今日の個所を読んで、ホッとしたことも事実です。

神様の憐みを覚えます。必死で、生きることを求める人たちの願いが、神様の御計画の隙間に入れられて許された感覚です。

新約聖書で、異邦人のカナンの女が、「子犬でも、主人の食卓からこぼれるパン屑にあずかります」と告白した信仰に似たものを覚えます。

ギブオンの人たちのいのちは救われました(27節)。

神様の御計画は、絶対に変わらない不変のものであることを知っていますが、同時に、そこには人間の絶対不変という概念とは異なり、無限の叡智を持っておられるお方であるがゆえに、絶対不変の中にも無限の可能性や柔軟性があるように感じます。やはり、主はすべてにまさって偉大な主です。私たちの人生のすべてを委ねることができるお方です。全人類を正しく裁くことが出来る唯一のお方です。

きょうも、天国の1日を感謝します。

清宣教師

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