21節~6節では、主の使いが警告しています。主の命令の中で従いやすい所だけ従い満足し、難しい所については妥協するやり方についての警告です。

それで、主は難しい所はそのままに残されることにしました。それは民の忠誠心を試みる試金石として残されました。

6節から10節では、再度、ヨシュアの死を描き、ヨシュア記から士師記へのつなぎとしています。

ヨシュアの死後、イスラエルの民が偶像礼拝に陥って行く様を描いています。しかし、イスラエルの民が苦しみの中で、主に立ち返ると、主はひとりのさばきつかさを起こされてイスラエルの民を救助されます。しかし、しばらくの平安ののち、イスラエルの民は再び堕落して偶像礼拝に陥ります。そして、長い苦しみの中で、イスラエルの民が主に立ち返ると、主はまたひとりのさばきつかさを起こされて救助されます。しかし、しばらくの平安ののち・・・・・という悪循環の繰り返しです。この211節~23節には、士師の全時代を通じて、その根底にある問題が見事に表現されています。そして、このあと、3章から、具体的に、それぞれの士師の時代を取り上げていくことになります。

士師記を読むことは、心地よいものではありません。あまりにも、人間のいい加減さ、その場しのぎの生き方、身勝手さが浮き彫りにされているからです。一方で、主の誠実、主の悲しみ、そして、士師記の著者の悲しみと無力感のようなものも伝わってきます。

士師記はおそらく、男性と女性では、受け止め方が違うのではないかと推測しています。士師記の中では、いろいろな男性、いろいろな女性が登場します。また、複雑な家庭環境で育った人たちが登場します。イスラエルには、12部族が住んでおり、年月が過ぎていきます。しかし、すべてを見ておられる主がおられます。ひとりひとりの一生は数十年であり、世代が変わります。どんどん、時が過ぎていきます。地上にいる人たちは、どんどん、交代していきます。しかし、そこにおいて、神様はご覧になり、神様の御計画が厳然として底流に流れています。

私たちの人生は短く、限りがあります。しかし、神様から与えられている使命があります。私たちはその中の一部を担うものです。神様の御計画のほんの一部を担うものでしかありません。しかし、私たちは、主からの使命を成し遂げるなら、永遠の報いが備えられています。
イエス様が癒されたのは、ユダヤの国の一部のひとでした。当時も、ユダヤの国以外に、今日と同じように多くの国々がありました。多くの人がいましたが、イエス様が癒されたのは、わずかのひとでした。多くの人がいましたが、12人の弟子を訓練されました。それが主の御計画でした。

私たちの働きも、ほんとうに小さいです。ひとりの人間のなす働きは小さいです。しかし、主のみこころは、そのようにして成就します。私たちの働きは小さくても、天の御国で、十倍、百倍、千倍、万倍の報いを与えられます。この地上での働きは、非常に小さな種のようですが、それは天の御国において十倍、百倍、千倍、万倍の実をむすぶものなのです。

そして、主なる神は、私たち一人一人に、その豊かな豊かなプレゼントを受け取って欲しいと願われています。

これからは 主の恵みが ふりそそぐ 奇跡の中を 歩む人生

清宣教師