さて、士師記も終わりに近づきました。12人の士師たちの活躍の記述は、士師記1章~16章まででおわり、17章~21章は、付録として加えられた部分です。17章~21章では、イスラエルの霊的堕落と無法状態を描いています。176節には、「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」と記されています。2125節にも全く同じことばが記されています。

昨日までの17章~18章では、神を求めない自己中心的な人々がイスラエルに宗教的な混乱をもたらしたことが描かれています。今日からの19章~21章では、宗教的な混乱が社会のさまざまな分野での倫理的な混乱へと繋がっていったことを記しています。

ひとりのレビ人が登場します。レビ人のそばめは、レビ人である夫を嫌い、実家に帰ってしまったのでした。そばめの父は、彼女を迎えに来た夫の都合を考えず、無理に長時間、家に留まるように勧めました。結果、レビ人は遅く出発することになり、外泊することになりました。外国人の町を避けて同胞のギブアの町へ行きましたが、町の人は留めてくれず、寄留者の老人だけが家に迎えてくれました。しかし、そこに町のならず者たちが来て、男色を要求しました。そこで、そばめを犠牲にして提供しました。それで、そばめは一晩中、暴行を受けました。翌朝、家の前に倒れているそばめをロバに乗せて家に帰り、そばめの死体を12の部分に切り分けて、イスラエルの国中に送りました。各部族はミツパに集まりました(211節)。

さて、今日の出来事は、どのような事件へと発展してしまうのでしょうか?

明日、解説します。

創造主に背を向けて、自分中心の勝手な生き方(人間中心主義、人本主義、ヒューマニズム)を選択すると、倫理的にも、社会的にも混乱の渦の中に巻き込まれて収拾のつかない状況へと発展してしまうものです。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル人への手紙、122節)。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネの福音書、154節、5節)。

清宣教師