きょうの個所は、主ご自身がみずから、ただおひとりで、ご自分の栄光を表されています。

私たちの主は、天と地を創造されたお方であり、全宇宙において、ただおひとり、「わたしはある」と宣言することができるお方です。

主は、主のみわざをなしておられます。主は憐み深いお方です。ただおひとり、この地上に来られて、全人類の罪を負われて十字架の上で贖いをしてくださいました。だれひとり、真の意味では、神の御子のお働きを助けたものはいませんでした。ゲッセマネにおいても、カルバリにおいても、神の御子イエス様は、孤軍奮闘、ただおひとりで、ご使命を果たされました(イザヤ書53章参照)。そして、サタンと闘い、完全な勝利を収められました。

イザヤ書424節には、「彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる」と記されています。私たちは、クリスチャンとして、職場でも、社会でも、家庭でも、「協力者はいない。希望は見えない。ただひとりである」という状況に置かれることがあります。しかし、「彼は衰えず、くじけない。」と記されています。また、「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。」(イザヤ423節)とも記されています。イエス様は、協力者がいなくても、希望は見えなくても、ただひとりであっても、自暴自棄になって破壊者になるのではなく、忍耐をもって、主のみわざが現れることを待ち望みました。そして、ついには、公義をもたらしました。私たちもまた、ただひとりであっても、主が共にいてくださいます。感覚ではなく、信仰をもってみことばを受け留めることです。

ところで、今週の水曜日の11章(サムエル記第12章の個所でした)の中で、「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」(230節)のことばを、20年くらい前、フィリッピンの国際稲研究所(IRRI)にいたとき、インド人のクリスチャンのS博士から贈られたことを記しました。11章のメールを読んだ妻が、あとで、こんな話をしてくれました。『炎のランナー』の主人公のエリック・リデルが、オリンピックで100m競争は主日礼拝のため棄権しましたが、平日の400mの競技で急遽、走ることになった時、この聖句を握りしめて走り、優勝したそうです。『炎のランナー』につながるとは、想像もしませんでした。

主の御計画は完璧で、完全に成就しました。そして、いまもなお、私たちのために、働いておられます。

主は生きておられます。きょうも天国の1日を感謝します。

清宣教師