昨日の13章では、ペリシテ人に対して抵抗するために、イスラエル人が立ち上がり、サウロのもとに集まりましたが、その数は3千人足らずでした。それに対して、ペリシテ人は戦車3万、騎兵6千、さらに無数のペリシテ人が集まって陣地を築きました(13章5節)。それで、イスラエル人は、圧倒的に不利な状態で、洞穴や岩間や地下室や水ために隠れながら、敵の行動を探っていました(13章6節)。

イスラエルの士気は下がっていました。さらに、サムエルが来るべき時に来なかったので、イスラエルの人たちは、それぞれ散って行こうとしていました。サウルは、そのような状態で、非常な不安を覚えて、サムエルが来るのを待たずに、全焼のいけにえを捧げました。そのあと、サムエルが到着し、サウルは「なんということをしたのか」と叱責されてしまいました。しかし、サウルは、言い訳をしました。自分は、諸事情を考えて、「思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」と主張しました。すでに、この時から、サウルの生き方は、主のみこころから離れはじめていたのです。

それは、きょうの14章で、さらに、明らかになりました。イスラエルの士気が下がる一方で、ヨナタンは、なんとか、この事態を打開したいと考えて、道具持ちと共に行動を起こしました。そして、それは成功しました。一方、ヨナタンの行動を把握していなかったサウルは、敵陣の動揺がみられるという、見張りからの報告を受けると、主にうかがいを立てますが、途中で打ち切り、敵陣に攻め込みます。イスラエルの民は、ペリシテ人が敗走するのを見て、追撃します。しかし、サウルが、断食の誓いを民たちに立てさせていたので、民たちは、食事抜きで戦闘することになり、その日の夕方、日が暮れて、断食の誓いから解放されると同時に、めいめいが、羊や牛などの分捕りものに飛びかかり血抜きをしないで貪り食いました。血抜きをしないで食べることは、モーセの律法に明確に違反することでした。サウルはそれで、自分のところに祭壇を築いて、血抜きをして食べるように命じました。そのあと、敵を追撃しようとして、祭司から、主に伺うように進言されると、祭司によるウリムとトンミムにより、主に伺うのですが、答えがありませんでした。そこで、主の前に調べると、ヨナタンに問題があると出ました。すると、サウルは、誓いを破ったゆえに、ヨナタンは死刑にすると宣告しました。ヨナタンは、素直に自分が断食を破ったことを認めて、死罪を受け入れようとしました。そのとき、イスラエルの民たちがみな、異口同音に、ヨナタンのいのちを救うように嘆願しました。それで、サウルはそれを受け入れ、ヨナタンは死ぬことなく、戦闘は収まりました。それ以後、サウルは、周りの敵と戦い、懲らしめたと記しています。サウルなりに、王としての責務を果たそうとしています。

ところで、サウルの生き方は、サウル自身は信仰のゆえの決断であると思っていますが、客観的にみると、それは、サウルの自分自身の考えに基づく選択をしているに過ぎませんでした。祭司にいったん、主に伺うように命じますが、敵陣の様子が明らかにおかしいと知ると、主に伺うことを中断してやめました。断食の誓いを立てさせますが、それは、民たちを苦しめ、動物の肉を血抜きをしないで食べてしまう罪を犯させてしまうことになります。しかし、サウルは民たちが血のまま食べた罪を反逆として断罪しました。あわてて祭壇を築きましたが、それは本当に民の罪の贖いのためかどうかは、明らかではありません。さらに、ヨナタンを死罪にしようとして、民たちがみな反対すると、それを撤回します。サウルにとっては、自分は、周りの状況を総合的に判断して決断していると主張するでしょうが、客観的に見るなら、主を第1とする決断ではなく、自分の信仰(思いつき)と周りの状況に流されているに過ぎません。

私たちも、自分の思いや感情、自分の考えで物事を決定しているにもかかわらず、あるいは、周りの状況に流されているだけなのに、自分は信仰に立って生きていると錯覚する恐れがあります。きょう、そのことを点検するチャンスが与えられました。主に感謝します。

清宣教師