イスラエルの最悪の王であるアハブであるが、どういうわけか、主の憐みをうけている。アラムの王ベン・ハダデが大軍を率いて、イスラエルを包囲して攻めてきたとき、主は、一方的に、イスラエルの勝利を約束された。それはアハブ王に対して、「わたしこそ主であることを知る」ための証しでした。そして、その通り、イスラエルは、ベン・ハダデの大軍に対して予想を覆して大勝しました。
アラムの王は逃れて、アラムへ帰り、体制を建てなおして、次の年の春にイスラエルを攻めてきました。それに対して、主はひとりの神の人をアハブに遣わし、今回も、アラムの大軍をアハブの手に渡すと約束されました。それにより、「わたしこそ、主であることを知る」という証しでした。そして、その通りに、ベン・ハダデの大軍は壊滅的な敗北を喫しました。
このように、2回にわたって、主はアハブに対して恵みを示し、ご自分のもとに立ち返るように勧めたのでした。しかし、アハブは、ベン・ハダデの家来たちによる「アハブは憐み深い王である」というアハブの自尊心をくすぐる悪巧みに乗ってしまったのです。そして、アハブは、あたかも自分自身の力でベン・ハダデに勝利したかのように、自分の手で事を処理してしまいました。主が勝利を与えられたのですから、主にすべてのことを伺う必要があったのです。結局、主が勝利を与えられたにもかかわらず、敵の王を逃してやった罪により、アハブ自身が、アラムの王に代わって聖絶されることになるのです。それにしても、これまでの歴代の王とは異なり、アハブは、主の大きな憐みを受けて、何度も主の預言者の導きをうけています。これはとても不思議なことです。暗黒時代と言われる時に、最も、偉大な預言者が活躍しているのを読む時、主の深い憐みを覚えます。また、私たちの終末の堕落の時代にあっても、主の憐みは尽きることなく、むしろ、偉大な神の器を起こして下さるという望みを与えて下さることを感謝します。
一方で、主の器である預言者に対しては非常に厳しい服従が要求されているのを見ます(36節)。わたしたち、主のしもべであり、主の救いの中に入れられている者は、質的に高い服従が要求されていることを教えられます。「神の国と神の義をまず第1に求めなさい。」「あなたがたは地の塩です。世の光です。」これらのことばは主のしもべに与えられているものであると考えられます。
私たちの責任の重さを覚えさせられます。私たちを聖霊様によって満たしてください。私たちを清めて通り良き管として下さい。そして、世の光、地の塩としての役割を果たさせてください。この終わりの世に会って、私たちを聖霊様によって満たしてお用い下さい。
清宣教師