南ユダ王国のダビデ王朝にはヒゼキヤ王が誕生しました。25歳で王となり29年間、王でした(1節、2節)。しかも、ヒゼキヤ王は、「すべて父祖ダビデ王が行った通りに、主の目にかなうことを行った」(3節)を記されています。久しぶりに、主のみこころを行おうとする王が登場しました。「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。」(5節)とか、「彼は主に堅くすがって離れることなく」(6節)という描写が続きます。そして、主が共におられたので、彼はどこに出陣しても勝利を収めました(7節)。
信仰に堅く立つ王の登場で、南ユダ王国は、平安を取り戻していきました。しかし、即位後14年目にかつてない危機が訪れました。北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤの強大な軍勢がユダの町々を攻めて、次々と攻略したいったのです。そこで、ヒゼキヤ王は、アッシリヤの王に降伏を申し出て、膨大な貢物の要求に応じました。
しかし、時が過ぎと、理由は不明ですが、アッシリヤの政策が変わり、ユダ王国そのものを亡ぼそうとして、エルサレムを包囲しました。アッシリヤ王の配下のラブ・シャケが大軍をもって包囲したのです。ラブ・シャケは、周到な計画をもっており、心理作戦を展開してきました。それで、ユダのことばで民たちに直接語りました。ユダの民たちが恐れていることを見抜いて語りかけました。今回のことは、アッシリヤの王が主を差し置いて決めたことではなく、主が『この国に攻め上って、これを亡ぼせ』と語られたので決めたことである。だから、ヒゼキヤに騙されてはならない。アッシリヤに降参すれば、いのちも助かり、穀物とブドウ酒にあずかることが出来るといい、さらに、私が来て話しているのは、おまえたちが生きながらえて死なないためであるとも語りました(25節、31節、32節)。
ヒゼキヤ王のような偉大な信仰の器には、ある意味、とてつもない試練が襲うということがあるということです。そして、それは決して稀なことではなく、現代でも偉大な信仰の器は、大きな試練に遭遇しています。そして、信仰による大きな勝利を勝ち取っています。それが、主の栄光として輝くのです。ヒゼキヤ王の場合も、ユダの民全体の苦しみを担う王として、ほとんど耐えられない苦悩の中に置かれていました。それは衣を裂くという行為に表れています(19章1節)。しかし、主イエス様が負われた重荷は、全人類の病であり、全人類の罪と咎でした。ヒゼキヤ王とは比べることが出来ないほど、すさまじく重いものであったといえます。しかし、その栄光は、全天全宇宙に輝きわたるものでした。
私たちも、創造主なる神様から、それぞれの使命をいただいております。その使命を果たすべく、全身全霊を傾けて取り組むとき、大きな試練も来ます。しかし、それは主の栄光が表れるためです。主よ、信仰、愛、感謝、賛美、畏敬と尊敬の心を与えてください。主をさらに深く知ることが出来ますように、お導き下さい。
清宣教師