いよいよ、神殿が完成して、契約の箱が内堂である至聖所に運び込まれました。そして、祭司たち、レビ人たち、歌うたいたち、すべての神殿奉仕者が、この日ばかりは、担当の順序によらず、全員、神殿の前に並びました。そして、みながまるでひとりでもあるかのように一致して、賛美の歌声を響かせ、創造主なる神を賛美しました。「主はまことに慈しみ深い。その恵みはとこしえまで」。すると、主の宮が雲で満ちました。この場合の雲とは聖なる神の臨在を示す象徴です。人間は聖なる主の栄光の前に直接立つことができません。それで、主はその栄光を雲で覆い、その臨在を現されます。それでも、祭司たちは、その臨在の栄光の雲によって、そこに立って仕えることが出来ませんでした。主の栄光が神の宮に満ちたからでした(13節、14節)。
きょうの5章も、礼拝に関する個所でした。この地上においても、このような礼拝が実現するという実例が示されています。このような礼拝が、アメリカの教会でも記録されています。真の礼拝では、礼拝奉仕者がなにも出来ないという光景がみられるそうです。主の臨在の中にあると、一切の人間的な行為がやんで、すべてにおいて主の臨在が支配するようです。ただ、そこには、聖霊様の平安の波が押し寄せては、感動と涙と沈黙があるそうです。ソロモンの神殿においても、イスラエルの最高の礼拝奉仕者たちが備えられていました。しかし、礼拝の究極は、ただただ、主の前にひれ伏す以外にないということです。私たちの礼拝の究極の目標も、矛盾するようなことになりますが、最高の準備をしたとしても、すべての賛美も、祈りも、メッセージも止まり、主の臨在と沈黙が支配することのようです。
しかし、礼拝の奉仕に意味がないわけではありません。主の臨在の現われる前に、「ラッパを吹き鳴らす者たち、歌うたいたちが、まるでひとりであるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた」(13節)と記されています。まるでひとりでもあるかのように一致するとは、最高の準備をもって、しかも、全員がひとつの心で賛美を捧げたことを意味しています。司会者、奏楽者、賛美アシスト、音響、メッセンジャーという礼拝奉仕者が、最高の準備をもって心を合わせて奉仕する時に、究極の礼拝である、主の臨在の顕現への扉をひらくのです。そういう意味では、やはり、礼拝の奉仕者は最高の特権をいただいていることになります。会衆を主の臨在の中へ導く役割です。良き準備をして、心を合わせて、奉仕をすることが求められています。
そのために、お祈りしていきたいと思います。
清宣教師