ヨアシュは、アタルヤがダビデの家系にある王族をことごとく滅ぼしたとき、九死に一生を得ました。そして、祭司エホヤダの支援により、ヨアシュが7歳の時、王に即位しました。そして40年間、南ユダ王国を治めました。祭司エホヤダの存命中は、ヨアシュ王は主のみことばを大切にして、主の宮を補修しました。人々は、主の宮で全焼のいけにえを捧げました(14節)。エホヤダは長寿をまっとうして130歳で死にました。この期間は南ユダ王国は平穏な時代でした。しかし、エホヤダの死後、これまで沈黙を守っていたユダのつかさたちが、王のもとにきて伏し拝み、王に取り入り、主の宮を捨て、アシェラと偶像礼拝に仕える道を選ばせました(17節、18節)。それで、主は預言者を遣わして、主の道へ立ち返らせようとしましたが、彼らは聞き入れませんでした(19節)。しかも、祭司エホヤダの子を王の命令で、石で打ち殺すようなことさえしました。事ここに至って、主は、アラムの軍勢を呼び寄せて、ユダとエルサレムを略奪させられました。そのあと、ヨアシュは重病となり、家来たちの謀反によって殺されてしまいました(25節)。祭司エホヤダの人生とは対照的に、47歳で悲惨な死を遂げました。そして、彼の子のアマツヤが王となりました。
今日の個所から学んだことですが、こどものような素直な心を持っている時は、良い指導者のもとで主に仕えるのですが、そこで事がうまくいくようになると、自信をもつようになります。また、プライドをもつようになります。そのようなとき、サタンが誘惑します。ユダのつかさたちのような、へつらう人々を用いて伏し拝まれると、ヨアシュ王のように主のもとから離れてしまいます。自分の力で生きる道、偶像礼拝の道を選んでしまいます。
歴代誌に登場する王様には、完璧なひとはいませんが、残念なのは最初は主に誠実に仕えるのですが、治世の後半になると、王様としての自信がついてきて、意識するとしないとに関わらず高慢になり、自分の能力や権威を認める人たちの間で生きることを選び、主から離れてしまうことです。これは反面教師としての王様ですが、ことごとくといってよいほど、善王であっても、治世の後半には悪王になるという傾向があるということは、私たちクリスチャンにとっても警告であると思います。
まだ弱く、自分が確立していない不安の時には、教会に来て主を求めます。そして、洗礼をうけて新しい人生を出発します。しかし、主の恵みにより、弱さが強さへ、不安が安定へと変えられていくとき、聖霊様の導きから次第に自分自身による決定へと変化していきます。最初は人間関係よりも主との関係を重視するのですが、次第に人間関係が解決して良くなると、主との関係がおろそかになってしまうのです。もともと、人間には、自分自身を中心とする生き方があります。罪の性質です。これは重力のようなもので、主との関係をおろそかにすると、いつのまにか、自分中心の人生へと変化してしまうのです。しかし、それに気づかないことが多く、いつのまにか、主から遠く離れても自分で生き続けてしまうのです。
「いつも」、「絶えず」、「すべてのことについて」とは、私たちの罪の性質に対する聖霊様からの警告です。「いつも喜び、たえず祈り、すべてのことについて感謝しましょう」と聖霊様は勧めます。いま、主の前にひれ伏して主をほめたたえます。アーメン。
清宣教師