喜びは 私の中の 選びなり 主に従うか 自己を選ぶか

雪が降ってきて寒いです。きょうも、散歩は断念します。
そこで、一句ですが、笊川の自然の中をあるくことができず、昨日に続いて、きょうもまた、自省の句となりました。
今年の初めから「感謝」の習慣を身に着けようと決心して、毎日、5つの感謝をノートに記すことにしました。ほぼ1か月たちましたが、毎日、実行しております。5つだけでなく、10を超える日も多いです。きちんと、振り返るなら、1日のうちに多くの感謝を見つけることができることを見出しました。同じように、喜びもまた、たくさんあるはずです。ところが、よろこびとなると難しいのです。「いつも喜んでいなさい」・・・これがとても、私には難しくなかなか、実行できないままでした。
今朝のデボーションの本に、「私たちは喜びを選ぶことができるのです。ふたりのひとが同じ出来事に出くわしたとしても、一人は起こった出来事を、その中に何か希望が宿っていると信じて、受けれいれて生きることを選ぶかもしれません。もう一人の人は絶望を選び、それにつぶされてしまうかもしれません。私たちが人間であるのは、まさしくこの選択の自由にあります。」と記されていました。
そこで、悟りました。「七転び八起き」です。サタンは、失敗するたびに「お前はだめなやつだ」と語りかけます。しかし、聖霊様は「大丈夫、一緒に、もう一度、立ち上がろう」と語りかけてくださいます。私は、それなのに、サタンの声に耳を傾けて喜びを奪われていたことがわかりました。私に必要なのは、自己を捨てて、聖霊様の慰めと励ましの声を受け入れることです。「喜びは、つねにある。それは私の選択による。」主よ。いつも喜ぶとは、その道を選択することなのですね。