エステル記5章で、エステルは死を覚悟しつつ、ユダヤ人同胞のために、王の前に立ちました。そして、王の好意をうけて、死罪は免れました。それどころか、なんでも欲しいものを願い求めるようにとのことばをいただきました。そこで、王妃は、王とハマンの二人が、エステルの設けた宴会に出て欲しいと願いました。そして、その酒宴が催されました。ふたたび、王はエステルに何をして欲しいのか、願い出るように促しました。しかし、王妃は、ここでも、嘆願することをやめて、もう一日、延ばすことにしました。そして、もう一度、王とハマンにエステルの宴席に出て欲しいと頼みました。

6章では、エステルが王に願いを述べることを止めたことが、王の心の中に何故だろうという思いを与えたと思われます。王は、夜、眠ることが出来なくなり、年代記を調べることにしました。これらの背景には、すべて、主の導きがあったことは疑いの余地がありません。王は、モルデカイの功績を知り、翌朝、モルデカイに対する恩賞を与えようとして考えていた時、主はその場に、ハマンを呼び寄せていました。そして、王は、何も知らずに、その場に居合わせたハマンに案をださせました。ハマンは、心の中で、王が栄誉を与えたいものは、自分しかいないと確信していたので、最高の恩賞を考えて提案しました。その結果、皮肉にも、総理大臣のハマンが殺そうとするほどに憎んでいたモルデカイのために、みずから、王服をモルデカイに着せて、王の馬に乗せて、広場に行って、モルデカイの前で、「王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである」と大きな声で叫ばなければならない結果となりました。

今日の7章では、ついに、王とハマンの前で、エステルが嘆願することになります。エステルにとって、その朝、王がモルデカイに対して与えた最高の栄誉、また、ハマンがそれを手助けしなければならなかったことは、神様の御手以外にあり得ないことでしたから、エステルは、主からのしるしを与えられて、今度こそ、嘆願すべき時が来たと確信したに違いありません。そして、エステルは、王にハマンの悪事を、自分自身のこととして、率直に訴えました。その結果、ハマンは、自分がモルデカイを処刑するために、自分の庭に用意した22メートルの柱につけられて、処刑されることになりました。その高い柱のゆえに、シュシャンの町全体に、主のみわざがあらわされました。

まさに、高ぶる者は、みずからの高慢によって滅びました。一方、自分の功績を求めず、へりくだったモルデカイは栄誉を受けました。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ書46節)。

ここで、王妃エステルは、ユダヤ民族の執り成し手として、役割を果たしました。エステルの行動の中に、執り成し手としてのひとつの模範を見ることが出来ます。第1に、神のみこころを求め、第2に、大胆に神に近づき、第3に、滅びゆく同胞の状態を自分のこととして神に言い表し、第4に、サタンに立ち向かうことです。

明日の展開が楽しみです。清宣教師