4章からヨブと3人の友達との間で討議が始まりました。まず、ヨブの友達が語り、それに対してヨブが答える形です。
具体的には、エリファズとヨブ、次がビルダテとヨブ、次がツォファルとヨブとの議論となっています。4章から14章です。
これで、ヨブの3人の友達とヨブの間の議論が一巡することになります。
次に、第2ラウンド、エリファズとヨブ、次がビルダテとヨブ、次がツォファルとヨブとの議論がなされます。15章から21章です。これで、ヨブの友達をヨブの間の議論の2巡目です。
ついで、第3ラウンド、ヨブの友達とヨブの間の3巡目の議論です。エリファズ、ヨブ、ビルダテ、ヨブの議論で終わり、ツォファルは語っていません。これが22章から27章です。
ところで、3人の友達は、基本的には同じ立場に立っています。それで、3人の友達は、お互いに補強しあいながらヨブと議論する形になっています。ヨブが一人の友に答えると、他の友達がヨブの反論に対して、さらに、強く、補強し、補足し、ヨブに挑みます。そういうわけで、ヨブは、3人の友に対して答えるということは、単に、3倍の重荷を抱えるというよりも、3人が補足、補強するわけですから、ヨブの重荷は、3倍ではなく、それが、6倍にも、9倍にもなって襲いかかることになります。どれほどの負担を強いられているか、想像できると思います。
さて、3人の友達は基本的には、同じ立場にたっているといいましたが、それはいわゆる因果応報の原理に立っているということです。友達の神に関する共通理解は、因果応報の原理に自動的に従う神という理解です。ある意味、因果応報の原理そのものが神になっているかのような理解です。しかし、創造主なる神は生ける神であり、すべてのものを超えておられる神です。3人の友達の考えでは、ヨブが、これほどの不幸の中にあることはヨブの行為が原因であり、ヨブの罪の結果であるに違いないという考えです。ですから、3人の友達はヨブを罪ありとして裁くのです。
私たちは、1章と2章の天上における神の会議の内容を知らされているので、この因果応報の原理から解放されて、ヨブに起こっている出来事をみることが出来ます。イエス様が、「人を裁いてはならない。裁かれないためである」という意味がよくわかると思います。私たちの知識には限りがあり、人を裁くことが出来るような知識を持ち合わせていません。裁くことが出来るのは全知全能なる神、おひとりだけです。
きょうの5章では、エリファズは、ヨブに対して、1節~7節で、愚か者の行く末について述べています。8節~16節で自分がヨブの立場であったらどうするかを述べています。17節~27節では、神の懲らしめられるものの幸いについて述べています。全体的に、エリファズは、自分の最善と思われる方法で、ヨブに対して語りかけていますが、その根底にあるのが、ヨブを罪あるものとして、ヨブは神からの懲らしめをうけているものという考えです。それゆえに、エリファズの主張は、ヨブには受け入れられないのです。
清宣教師