1節~12節において、ヨブは、主の恵みが止められているという恐れの中で、前半の1節~6節で人間のはかなさについて述べ、自分を監視しないように神に求めています(6節)。後半の7節~12節では罪ある人間は死んでしまえば望みはないと述べています。樹木の場合は切り倒されても芽が出てきますが、人間にはそのような望みがないと述べています(10節)

13節~17節において、ヨブは神を直接「あなた」と呼んで深い神との交わりを求めています。しかし、ここでも、「人が死ぬと、生き返るでしょうか」と述べています。これは反語であり、そういうことはない、という意味です。10節の告白とともに、ヨブにとって復活の希望という信仰には、まだ導かれていなかったと思われます。(しかし、この苦悩を通して、復活の信仰へとやがて導かれることになります)。

さて、ヨブは、ここでは復活の希望を持つことが出来ませんでしたが、たといそうであっても、「あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう」という告白をしています。創造主はご自分の作品を知っておられます。そして、恵み深いお方なのでヨブをも覚えて下さるお方であると確信しています。また、罪には目を留めず、咎を覆って下さる真実なお方であると信じて祈っています。

18節~22節において、ヨブの心は一変しています。友達への答えの中で、ヨブは友達に反論するだけでなく、友達との心の断絶とともに、苦悩の中で神に叫び求めることを通して、ヨブは一筋の光を与えられ、一歩、階段を上がるのですが、しかし、また、現実の友達とのむなしい対話という現実に呼び戻されて、深い嘆きで終わるのです。この世界では安定していると考えられている大きな山も堅い岩も、大地も崩れ去るように、人間も死をもって打ち負かされてよみに下ってしまう存在であると述べています。そして、人間は、それに対してなすすべもなく、ただ痛み嘆くだけである(22節)とのべて、いったん、対話を閉じます。

すると、こんどは、エリファズが語り始めます(15章)。

ヨブは3人の友達との対話の中で、批判され、裁かれ、追い詰められ、孤独にさらされます。これはサタンの戦略であり、ヨブを神への信仰から引き離そうとする戦略でした。しかし、そのことが、神のしもべであるヨブをますます神へと追いやるのです。サタンのもくろみは崩れましたが、しかし、主なる神にとっては思惑通りでした。ヨブは苦しみの中でも主のしもべであるという立場を放棄することがなく、孤独の苦しみの中で、神との交わりを必死に求め、新しい悟りへと少しずつ、少しずつ、導かれていくのです。つまり、このあと、「仲裁者の存在」、「復活の望み」という新たな信仰の拠り所を得るようになります。

主に信頼する歩みにおいては、「すべての問題は祝福の門口」です。

 

清宣教師