15章から、ヨブの友だちが第2順目の論争を仕掛けてきました。その前に語られたヨブの答え(12章~14章)には、友人たちは耳を傾けず、ヨブに問題があるとする姿勢を貫き、むしろ、ヨブを慰めるというよりも、自分たちの立場を守ろうとする姿勢に転じて、もはやヨブに対する思いやりの姿勢などは影をひそめてしまいました。ともかく、ヨブが不敬虔であり、高慢であり、ヨブは、その悪の結果を刈り取っているのだ、それを否定するヨブはもはや神の徹底した裁きを受ける以外にないと断じています。

16章では、ヨブは友達に対して、お前たちは煩わしい慰め手であると言いました(162節)。結局、ヨブの主張を聞き入れてくれない友達に対して、神からも、友人からも理解してもらえないというヨブの苦悩が、一筋の光へと導いていきました。それは、天には自分と神との間に立って自分を仲裁してくれる「保証人」がおられるに違いない(1619節)という悟りでした。その証人は、地から出る血の叫びに耳を傾け(18節)、高い所におられて(19節)自分を執り成してくださるに違いないという悟りでした。

17章では、天の法廷においてヨブの友人たちを訴えています(2節)。ヨブが潔白であることを保証してくれるはずの友人たちがむしろ、ヨブを嘲り、ヨブを罪に定める役目を果たしているという状況のもとで、ヨブは、天の「保証人」しか、より頼むべきお方はいないという信仰を言い表しています(3節)。ヨブは、自分が受けている辱めについて述べ(6節~10節)、また、現実の厳しい状況について述べています(11節~14節)。しかし、ヨブは限りない絶望の淵に追い詰められても、なお、望みがあることを言い表して、この論争を閉じています(15節、16節)。ヨブの望みは19章でさらに明らかにされていきます。

18章では、シュアハ人ビルダテが、ヨブに2順目の論争を挑みます。やはり、ヨブには悟りがないので話にならない、とヨブを責めることばから始めています(2節)。そして、悪人の行く末について語り始めました。つまり、ヨブがそれに当てはまり、その行く末に進んでいるということを強調するためでした(5節~21節)。つまり、友人のことばは、ヨブへの慰めでも、アドバイスでもなく、もはや一方的な裁きと脅しの文句になっています。ヨブは、ヨブの友人と言われるビルダテたちの冷酷で、無慈悲なことばに、とても深く傷つくのです。11節~15節のことばに至っては、不倶戴天の敵が発するようなことばとなっています。これが友人と自称する人たちから発せられることによって、その苦しみは、千倍にも万倍にもなるのです。

敵が敵として語るとき、それに耐えることは難しくても、でもなんとか耐えることができます。しかし、親友であると自称する人たちから語られる時、その距離は無限にも感じられるのです。これを耐えることができるのは、真に神にのみ信頼を置く人だけです。そうであるがゆえに、今も、神の選びの器は、このような苦しみのなかに置かれます。それが十字架の道です。

しかし、それこそが、神の選びの器を滅びと迷いから救い出すものとなります。真の神の器を形成します。

清宣教師