エリフが続けて語ります。ヨブが自分の正しさを主張し、神がそれを認めないことに異議を申し立てて、自分の正しさは神の前には意味がないのかと不平を述べていること(3節)に対して、それは自分の義を神の義と等しくするものであるとエリフは考えて、ヨブが自分中心の考えから神を判断していることの過ちを指摘しようとしています。

4節~8節で、エリフは再び、神の超越性を強調して、人の罪も人の正しさも人間の世界においては影響を与えるけれども、神に直接影響を与えることはできないと述べています。この辺の神の超越性はヨブも認めていることでした。ヨブにとっては、ただ、自分の正しさを認めない神への不満を述べているつもりなのですが、それは、エリフが危惧しているように、神の判断の上にヨブ自身が立って、神を批判していることにならないのか、という疑問です。

9節~16節で、エリフは、多くの人が虐げのために泣き叫び、助けを叫び求める現状があることを指摘しています。しかし、その中には、造り主なる神に真の解決を求めるべきなのに、神を求めていない場合があること(10節、11節)を指摘しています。その場合は、主は、そのような叫びをお聞きにならないこと(12節、13節)を指摘しています。つまり、多くの場合、いわゆる困ったときの神頼みであって、そこには神からの答えを期待するのは筋違いだということです。エリフは、ヨブの場合も、神が答えて下さらないのは、ヨブがむなしく叫んでいるからではないかと推測しているようです(16節)。それで、エリフとしては、ヨブに対して、14節と15節で、黙って神を待つこと、何故ならもうすでにヨブの訴えは神の前に置かれたのだから、と勧告しています。しかし、すでにご存じのとおり、ヨブは苦しいときの神頼みではなく、平素から神を愛し神を敬い、神を礼拝する人物でした。エリフは、この点において、ヨブが「神のしもべ」であることを良く理解していなかったようです。ただ、エリフが3人の友人たちを違う点は、ヨブを罪ありと断罪しているのではなく、ヨブが神の前に高ぶって、神をも訴えるその姿勢に疑問をいだいているということです。だからこそ、ヨブがこれ以上、高ぶりの罪を犯さないように、すでに、神の前にヨブの訴えは届いているのだから、もうしばらく、黙って神を待ち望むように勧めていると考えられます。

清宣教師

追伸、きょうは、故・菊地貢兄の召天記念礼拝と偲ぶ会がありました。教会の兄弟姉妹のご奉仕のゆえに、主が豊かに祝福して下さいました。この会には、未信者の親戚の方々が多く参加されました。そして、福音の宣教がなされ、また、和気あいあいと、親しくお交わりする機会が与えられました。感謝です。