表題に登場する『ベニヤミン人クシュ』とは誰か、サウル王という解釈と、サウル王の側近の者という、ふたつの解釈があります。

ダビデは、いわれのない反逆罪という汚名を着せられて、逃亡者としての生活を余儀なくされていました。この不当な状況の中で、ダビデは、真剣に神に向かって無実を訴え、敵からの保護を求め、神に無実を証明して下さるように求めています。

1節と2節では、ダビデは、差し迫った危険、そこからの救いを求めています。

3節~5節では、自分自身は無実であることを訴えています。

6節~13節では、主が裁判官として正しく裁いて下さるように、的確な審判がなされるように願っています。

14節~17節では、悪者が自滅するように、そして、最後に、正しい審判をなさる主をほめたたえて、この詩を閉じています。

ダビデは、不当にいのちを求めるサウル王のいのちを二度までも救ってやりました(サムエル記第1、24章、26章参照)。サウル王に対して、ダビデはつねに誠実に対応してきたのに、サウル王は不誠実で、自分が約束したことを破り、ダビデを討伐しようとする残酷な仕打ちで返してきました。恩を仇で返すようなものでした。

そのような状況の中で、ダビデは主に信頼し、忍耐し、祈る以外にありませんでした。しかし、主の御計画は、このような試練の中をダビデが通ることにより、ダビデが将来の統治者として必要な資質を身に付けることでした。

私たちの目には、不当な仕打ちを受けるとしても、その背後には、つねに、全能なる神の御計画があるのです。

あなたが今、不当な仕打ちを受けているとするなら、神様の御計画の中にあるのです。それはあなたを祝福し、豊かにさせる計画です。きょうも、主はあなたのひとつひとつの歩みに関心を持たれ、見守っておられます。

清宣教師