ここには、「あなた」という言葉が出てきます。ダビデの賛歌という表題がついています。ダビデ以外の詩人が王のために祈ったのか、あるいは、ダビデが民たちに、共同体としての王のための祈りの模範を記したものと考えられます。
つまり、内容的には王のための執り成しの祈りのことばが記されています。「あなた」ということばが何度も出てきます。この詩は「あなた」のための祈りです。では、「あなた」とは誰かというと、6節から「油注がれた者」であり、9節から「王」であることが分ります。
1節~5節は、王のための祈りです。苦難の戦いのとき、王は軍勢の先頭に立って出陣しようとしています(1節)。かつて、ヤコブの神が、数々の苦難から救い出されたように、王を守り、助けを与えられますように(2節)、王が捧げる捧げ物を顧みてくださいますように、と祈ります。また、主が王の願いを聞き入れて下さり、はかりごとを成功させてくださいますように(4節)、そして、勝利を与えてくださいますように(5節)と、王のために執り成しの祈りをささげています。
6節~8節は勝利の確信です。6節の「私」とは誰か、ダビデか、祭司か、預言者か、詩人か、明確ではありません。ただ、救いが神から与えられる、という確信に基づいて、勝利を宣言しています。「主は油注がれた者をお救いになる」。7節と8節では、再び、「私たち」と記されています。王からの民たちへの呼びかけと考えられます。勝利は戦車や馬によるのではなく、勝利は主によるのだから、私の民よ、一緒に「主の御名を誇ろう」という呼びかけです。
9節は神の民の願いです。「主よ。王をお救い下さい」。民の救いは王にあります。民は王の勝利のために、勝利を与えられる神に、王の勝利を願い求めるのです。そして、王と共に、勝利の喜びを味わうのです。
この詩篇は、日本の国の指導者のために、また、西多賀教会の牧師や執事役員の方々のために、執り成しの祈りを捧げるための模範を示しています。私たちは、共同体の一員として、日本のため、西多賀教会のために、その指導者のために、大胆に祈る必要があります。日本の国の現状も、教会の現状も、私たちは良く知っています。そこで、舵を取り、正しい進路へと船を進めるには、全能の神の導きと守りが絶対に必要であることを感じています。私たちの執り成しの祈りが不足しているのではないでしょうか?
主よ、私たちの心の中にある、内なる霊に、新しい燃え尽きることのない祈りの炎を点じてください。
清宣教師