表題の「暁の雌鹿」の調べとは、当時の歌の曲名と考えられています。ユダヤ教の伝承によれば、[雌鹿]とは、王妃エステルのことを指しており、この詩篇はハマンによるユダヤ人抹殺の計画に言及していると言われています。

一方、キリスト教の神学者は、これは詩篇中の最初で最大の受難詩であると考えています。ダビデ王が、御霊に感じてメシヤの苦難を預言したものと理解しています。

この詩篇は、1節~21節と、22節~31節のふたつに大きく分けられます。

2節の「あなたはお答えになりません」と21節の「あなたは私に答えてくださいます」ということばが対応しています。主イエス様は、十字架の上でこの詩篇22篇を瞑想されていました。「わが神。わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」と父なる神に向かって叫ばれました。この叫びこそ、全人類の罪を背負われた御子の叫びでした(マタイの福音書2746)6節の「私は虫けらです。人間ではありません。」という叫びも、十字架の上で、あたかも昆虫標本か何かのように、みんなの前で裸にされて、釘づけにされた姿を表現しています。8節は、実際に、人々が十字架のイエス様に向かって投げかけた侮蔑のことばでした。11節~18節の表現も、まさに、イエス様の苦難の預言となっており、実際に、それが成就しました(ヨハネの福音書1924節参照)。

21節で、一変します。「あなたは私に答えてくださいます」。十字架の上で、3時間にわたる暗闇と沈黙が支配しました。しかし、遂に、イエス様は、父なる神の御前に、「すべてを成就しました」と叫び、「わが霊を御手に委ねます」という祈りを父なる神に捧げました。

22節以降は、感謝と賛美(22節~26節)、神の国の拡大(27節~31節)です。24節の「悩む者」とはダビデ自身のことです。ダビデ自身が、主の導きの中で解決を与えられた大きな喜び、それが、御国の拡大への願いとなって表現されています。これも、御霊の導きの中で、十字架による究極の解決と御国の拡大を預言しているのかも知れません。ある注解者は、31節の「主のなされた義」というヘブル語の表現が、「なし終えた」という意味を持つことから、イエス様が十字架の上で、大声で叫ばれた「成就した」あるいは、「完了した」ということばであると考えています。つまり、この詩篇22篇は、初めから終わりまで、御子イエス様の十字架と密接に結びついていることになります。

神様の御計画は、断片的に、いろいろなところで語られています。そして、旧約聖書全体を通してみるときに、その御計画の全体像が見えてきます。あるひとは、ジグソーパズルのようであると言います。確かに、人類の救済計画の啓示は、創世記3章から始まっています。イエス様が言われたように、聖書全体が、イエスについて書いているのです(ルカの福音書、2425節~27節参照)。

主よ。わたしたちが、さらに、神様の救いの御計画の全体を良く理解できますように、上からの導きと知恵を与えてください。

清宣教師