きょうの詩篇は「ダビデによる」という前書きがついています。内容的には、緊迫した危険の中から助け出されたダビデが、危険の中で捧げた祈りを記録したものと考えられています。その危険の内容は一般的にはアブシャロムの謀反のことを指していると考えられています。

分りにくい表現がありましたが、それは1節の「私に口をつぐまれて、」ということばです。「神様の口がダビデの手によって口をつぐまれる」というのは理解困難です。これは注解書によれば、「神様が、私に対して口を閉じられる」という意味であると記されています。「穴に下る」とは、墓穴のことですから、死を覚悟しなければならない状況をさしています。

つまり、ダビデは、死を覚悟せざるを得ない危機的な状況のなかで、主に呼ばわり助けをもとめています。それに対して、私の岩である主よ。どうか、私の願いに耳を閉じることなくまた、口を閉じて答えることを控えないでください。私の願いに耳を傾けて、応答して下さい、という意味です(1節、2節)。

ところで、この詩篇28篇では、3種類の『手』が出てきます。ひとつは、「私の手」(2節)、ふたつめは「悪を行う者の手」(4節)です。みっつめは、「主の御手」(5節)です。そして、「私の手」は、何をしているかというと、「手をあげる」つまり、祈りの姿勢です。主に向かって救いを求めて指し伸ばす、祈りの手です。「真に男たるものは黙って祈りなさい」というパウロの勧めの通りですね。「聖所の奥」(2節)とは至聖所のことであり、主が臨在されるところです。ただひたすら、聖なる主が臨在するところへ、手を差し出して祈っているのです。

3節~5節は、悪者たちの行動です。ことばと行動がまったく異なるのです。ことばでは平和にみせかけ、行動では陰謀をたくらむものたちです。アブシャロムの場合で言えば、みんなの心に響く温かいことばで、みんなの心を盗みました。それは、自分の味方を作るための手段だったのです。ところが、自分に温かい言葉をかけてもらったので、その本心に気が付かず、アブシャロムに組するようになったのです。彼らは、ダビデに対するアブシャロムの謀反を黙認するようになっていったのです。しかし、主は生きておられます。主はその偽りを御存知です。主は最終的にその企みを打ち壊されます。ハレルヤ。

6節~7節は、主が祈りを聞いて下さったという確信の表明です。「それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。」私たちの場合、『こおどりして喜び』ということが、どのくらいあるでしょうか?1年に数度でも、「小躍りして喜ぶ」機会を持ちたいです。祈りへの感謝の応答を、きちんと主にお返ししたいです。主日礼拝の賛美もそのひとつであると思います。小躍りして賛美するのも、その表現のひとつですね。

8節~9節は、まことの王であり、大牧者である主に対して、御民を守り、救い、祝福して下さるようにとの執り成しの祈りです。

清宣教師