詩篇36篇は、一読すると、おやっと思います。ふたつのことが脈絡なしに(ただ、私にそう見えるだけですが)対比されているからです。この詩篇の表題には「主のしもべ」と記されています。注解者によれば、主のしもべとしてのダビデが、神を恐れずに悪を選ぶ者の行動様式と、神の恵みの世界を知って生きる者の行動様式を対比させていると言われています。なるほど、と思いました。

1節~4節は罪の原理が記されています。

5節~9節は恵みの原理が記されています。

10節~12節は、恵みの継続を願う祈りです。

1節~4節。罪は、心の中に語りかけ、神に対する恐れがなければ、その語りかけを拒否することができません。彼はその罪を過小評価し、正当化し、神の知恵を求めることを止めてしまっているのです。それで、本来は神の前で静まって考えるべき寝床が、自分の利得を追及する場となってしまっているのです。

5節~9節。主の恵みの偉大さを知り、無限の広がりをもつ恵みを瞑想する時、主こそ、人や獣を栄えさせてくださる方であり、神の恵みの豊かさがすべての被造物を滅びから守り、豊かに養って下さっていることを悟ります。私たちはその豊かな恵みに与ることが許されており、その楽しみを味わうことが出来るのです。そして、創造主のみこころのうちに、すべてのいのちの源を見出し、光の中にまことの光を見るのです。

10節~12節。いつまでも、主の恵みによって生きることを願う者に、神の恵みが注ぎ続けられますように。そして、1節から4節で示された、高ぶりの足や悪者の手が、私を神の家、神の恵みから追い出すことがないように願っています。最後に、預言的な宣言をして閉じています。「そこでは、不法を行うものは倒れ、押し倒されて立ち上がれません」。

きょうの詩篇も、わたしたちに、恵みの豊かさを瞑想する時に、罪の原理によって惑わされることがないことを教えています。御父の愛、御子の恵み、それは測定することが出来ないものであり、地上にある、どんな高い山よりも高く、青空に浮かぶ雲よりも高く、その深さは太平洋の海盆よりも深いものです。御父の愛と御子の恵みを瞑想する時に、私たちは悪の誘惑、悪の手から逃れることが出来ます。主の家の豊かさは、神のこどもたちである私たちが、それを味わうために蓄えられています。その豊かさを心ゆくまで飲むことができるのです。御父は御子をお与えになる程に、私たちを愛し、すべてを与えられるお方です。

私たちの人生を、まことの父である神様に委ねること、主に信頼しよう。主に立ち返り、落ち着いて信頼しよう。

主はあなたの人生を祝福されます。あなたの苦悩を知っておられます。主はあなたと共におられます。

清宣教師