ダビデは無実でしたが、サウル王の激しい妬みのゆえに国家反逆罪の烙印を押されて逃亡の身となりました。それぞれの土地で、ダビデのことを理解し、支持する、さまざまな人たちの助けを受けながら、生き延びてきました。

しかし、今回は、ダビデが逃避しているジフの地元の人たちが、ダビデを裏切り、サウル王にダビデたちの居場所を密告したのです。今までとは違って、緊急事態となりました。不当なサウル王の仕打ち、サウル王に取り入ろうとするジフの人たち、この連携はとても強力なものとなりました。そこで、ダビデは主に祈りました。よく言われることですが、敵に周囲を囲まれても、一ヵ所、逃れの道があります。それは天の方向です。ダビデは天に向かって、神に祈りを捧げました。「神よ。御名によって、私をお救い下さい。」(1節)。「神よ。私の祈りを聞いて下さい。」(2節)。そして、その祈りは聞き入れられました。サムエル記第12319節―28節に記されているように、ダビデは、危機一髪でサウルの手から逃れることが出来ました。

きょう、私は美田園第2仮設で聖書のお話しをしますが、ヨハネの福音書81節―11節の個所を紹介する予定です。そこで、律法学者とパリサイ人らの巧妙な策略により、姦淫の現場で捕えられた婦人が登場します。群衆の真ん中に引きずり出されました。あとは、石打ちの刑をうけるだけです。石打ちの刑では、大きな石が飛んできて顔面を打ち、そのあと鋭い痛みをもたらす石が容赦なく飛んでくるのです。この女は確かに姦淫の罪を犯しました。その証人もいます。絶対に逃れることが出来ない状況でした。しかし、イエス様は、この女をその場から救い出されました。無実の罪で追われているダビデとは違い、この女は有罪でしたが、しかし、主の憐みにより、その場から救い出されました。人間的には絶対に期待できない出来事でした。まさに、人知を超えた神のみわざが表されたのです。

私たちも、窮地に追い込まれることがあります。敵だけではなく、味方と称する人たちからも、絶体絶命の窮地に追い込まれることがあります。ある場合は、「神の御名に誓って」という偽りの証言によって追い込まれることもあります。しかし、ほむべきかな、です。私たちの主は絶体絶命と見える包囲網の中に、脱出の道を備えて下さるのです。正確に言えば、すでに、初めから脱出の道は備えられていたことを知るのです。そして、私たちは救い出されます。主は生きておられます。それが、私たちの告白です。

「神は、すべての苦難から私を救いだし、私の目が敵をながめるようになったからです。」(詩篇547節)。創造主なる神を賛美します。偉大なお方が私たちの父であり神であることを感謝します。天のお父様、私たちを子どもとして下さりありがとうございます。

清宣教師