この詩篇は親しい者に裏切られた男の嘆きの詩篇です。失望、悲しみ、怒りの嵐とともに、そのすべての重荷を主に委ねて平安をいただくまでの心情が巧みに表現されています。みなさまにも似たような経験をお持ちであると思いますので、その心情がよく理解できると思います。きょうは、簡単に、アウトラインだけを示します。
1節―3節は、苦しみと悲しみの訴え、4節―8節は、逃避の願望について述べられています。
9節―11節は、悪が蔓延していること、12節―15節は、親しいもの裏切りが最大の悲しみであること、を述べています。
16節―21節は、主への訴えと神の裁きを求める願いをのべています。
22節―23節は、ダビデの生涯における重大事件が、神への訴えによって解決されたことを証して、主に信頼して正しく歩むことを勧めています。「あなたの重荷を主に委ねよ。主は、あなたのことを心配して下さる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
私たちが生きているこの世では、親しい者に裏切られることは避けられないように思います。しかし、天の御国では、そのようなことは皆無です。例外なく、私たちはみな、御子イエス様の品性に似た、新しい品性に変えられるからです。ですから、いつまでも根に持つことなく、天の御国での再会を想像してみましょう。みんな誠実で優しい人に変えられています。そして私もです。
「霊的な生活を送るとは、私たちが神の愛する子として神に属するものであることを、私たちの霊と神の霊とが一つになって証することです(ローマ8章16節参照)。・・・神の霊との交わりの内に生きる時、私たちは証人にほかなりません。なぜなら、どこへ行き、誰と会おうとも、神の霊が私たちを通してご自身を現されるからです。」(今日のパンより)
清宣教師