この詩篇は、ヨシャパテ王の時代(歴代誌、第220章)あるいはウジヤ王の時代(歴代誌、第2266節―8節)の出来事が背景にあると考えられています。5節は、2節を説明するものですが、6節―8節にあるように、イスラエルは周囲を敵の同盟軍によって包囲されてしまったのです。「エドム」は南東、「イシュマエル人」はエジプトからペルシャ湾、「モアブ」は死海の東、「ハガル」はギルアデの東、「ゲバル」は死海の南、「アモン」はヨルダンの東、「アマレク」は南の砂漠、「ツロ」は北、「ペリシテ」は西、それに遠くから「アッシリア」も加わっているという四面楚歌の状況でした。『ロトの子ら』とは、モアブとアモンのことですから、彼らが同盟軍の指揮をとっていたとも考えられます。

このような四面楚歌の状態の中で、9節―12節に記されているように、かつて、主がイスラエルの敵であるミデヤン、シセラ、ヤビン、ゼバフ、ツァルムナなどの敵を滅ぼしてくださった(士師記4章―8章参照)ように、これらの敵がみずからを恥じ、神の御名をおそれて、悔い改め、神に立ち返るように、そして、背き続ける敵が主の裁きを受けることにより、彼らが主の主権を認めるように、また、主を恐れる者たちも、敵に下される主の力と栄光を認めて賛美するようにと勧めています(13節―18節)。

これは、遠い昔々のことではなく、今の時代にも、続いています。今年もイランでは、「イスラエルに死を」とか、「イスラエルを地上から抹殺しろ」という大行進が、首都のテヘランでなされたと報道されています。イスラエルは、まさに、アラブ諸国に囲まれていて、いまなお、攻撃の危険にさらされています。同時に、旧約聖書に見られる、奇跡的な、神の主権による守りも続いているのです。

きょうの祈祷会では、スティーブンス・栄子先生のビデオを見ました。イスラエル建国以来、イスラエルは、ちょうど、この詩篇83篇に記されているように、完全に、四方を敵の同盟軍によって、包囲されたましたが、1度ならず、主によって助けられているのです。

1948514日、イスラエルが建国されるとアメリカやソ連はこれをすぐ承認しました。しかし、アラブ諸国はこれをはねつけイスラエルに攻め込んできたのです。イスラエル独立戦争(第1次中東戦争)です。建国して間もない新生国家イスラエルに対して、エジプト王国、シリア、トランスヨルダン、サウジアラビア、イラク王国、レバノンが開戦しました。まさに、四面楚歌のイスラエルでした。イスラエルは建国したばかりなので、正規軍はなく、ゲリラ組織である”ハガナ(防衛の意)”のみでの防戦でした。ユダヤ人はイギリスによって武器を所有する事を禁止されていたので、戦車や飛行機といった大きな兵器は持っていません。ハガナなどが細々と密輸していた小火器でアラブ軍と戦います。 アラブ正規軍の火力は圧倒的で、開戦四日目にはヨルダン側から進入したアラブ軍が、エルサレムを包囲してしまい、街道にはアラブ軍があふれている状況になり、テル・アビブ大本営は今や食料の尽きかけたエルサレム守備隊に絶対死守を命じます。テル・アビブ大本営は新たに補給用の道路を構築する事でこの難を乗り切ります。エジプト戦線からの進入もイスラエル抵抗線は簡単に突破され、エジプト軍がテル・アビブへ迫っていました。一方、レバノン・シリア戦線からの進入も戦車を有するシリア軍に対し、まったく抵抗できずにいました。このまま戦争を続けても、イスラエルは勝てる見込みはありませんでした。611日、国連が介入し、一時停戦に入ることが出来ました。この停戦間にイスラエルは国防軍(IDF)を発足し、組織的な軍隊を作り上げたのです。停戦期限の終わる7月9日、イスラエルは攻勢に出ます。イスラエル国防軍はアラブ軍の戦線を押し返し、エジプト方面にいたっては逆に国境をこえ、エジプト領内に侵入しました。1949223日、エジプトとの停戦を皮切りに無期限の停戦となりました。そして、結局イスラエルの国土はガザ地区、ウエスト・バンク、ゴラン高原をのぞく国境線を確保することになりました。聖地エルサレムはヨルダンとイスラエルで分割され、ユダヤ教の聖地がある東エルサレムはヨルダンになってしまいました。ユダヤ人は巡礼に行くことができなくなったのです。一方、トランス・ヨルダン王国は念願のエルサレムを領土に納め、国名をヨルダン川の向こう側(東側)という意味である、ヨルダン・ハーシム王国に変更したのでした。

第3次中東戦争(6日戦争)は、196765日、イスラエルに対して、シリア、エジプト、ヨルダン、イラクなどのアラブ諸国がイスラエルに攻め入るという情報を入手したイスラエルは先制攻撃を仕掛けます。

第3次中東戦争前夜、パレスチナではPLOが組織され、イスラエルとパレスチナ人の闘争が一段階レベルアップしていました。シリアではクーデターが発生し政権が交代しました。そして新政権はPLOに触発されるように、改めてイスラエルとの対決姿勢を明らかにします。早速シリアはゴラン高原にある陣地からイスラエルに対して砲撃を始めます。イスラエルはすぐさま報復攻撃に出ます。空軍の戦闘機がシリアの国境目指し発進すると、シリア空軍のソ連製Mig戦闘機もスクランブル発進しこれを迎え撃ちます。この戦闘はイスラエル空軍が勝利しました。シリア空軍パイロットの技量ではイスラエル空軍機を撃墜する事ができなかったのでした。そんな中、ソビエト国家保安委員会KGBは最近落ち込んでいるアラブに対する武器の輸出を促進するため、イスラエルとアラブ諸国の緊張を高めなくてはならないと考えていました。そんな折、シリアがイスラエルに対し攻撃を開始したのです。KGBはこのチャンスを逃しませんでした。KGBはシリアに対し、イスラエルが報復のために本格的な侵攻作戦を計画しているという情報を流します。さらにKGBはエジプトに対して「シリアとイスラエルが戦争に突入する」と言う情報を流しました。アラブのリーダーであるナセル大統領はエジプトもシナイ半島に軍隊を集結させます。もう戦争は避けられないと判断したイスラエルは、先制攻撃を計画します。先制攻撃を行なうと国際世論に叩かれますが、ほとんどの将兵が予備役のイスラエルでは、国境での緊張が長く続くと本来の仕事にもどれません。このままじっとしていたら、イスラエルの経済まで破綻してしまうのです。夜明け前のイスラエル空軍基地から戦闘機が発進していきました。イスラエル空軍機は砂塵が巻き上がるかというくらいの低空飛行で、アラブ軍の空軍基地に近づいていきます。アラブ空軍のパイロットは、咄嗟に地上員と共に自機に走りだしました。しかし、敵機はすでに基地から視認できるほど近くまで来ており、パイロットはやむなく自機に乗り込む事を断念し、退避壕へと引き返します。数秒後、爆撃機が飛来し、地上に並べてある虎の子の戦闘機に対し、爆弾をばら撒きます。こうして、アラブ空軍の戦闘機は地上に在るまま破壊されてしまったのでした。シナイ半島の国境を越えたイスラエル軍は、制空権のなくなったアラブ軍を簡単に撃退します。エジプト軍の士気は下がり、イスラエル軍は進撃を続け2日後にはスエズ運河まで達しました。ゴラン高原でも同じ戦術によってシリア軍は蹂躙され、イスラエルにとって脅威であったゴラン高原の要塞は次々に破壊されていきました。イスラエルの勢いは、この3国を占領してしまいかねない状態でした。ソビエトKGBにとってそれは望むべき事ではありません。ここらが潮時だと判断したソビエトは国連による介入を上申しました。これが通り、国連は停戦のために介入したのです。そして、エジプトとヨルダンは8日に停戦を受け入れました。6日間の戦争でした。この戦争の勝利によって、イスラエルは、シリア領のゴラン高原、エジプト領のシナイ半島、そして、ヨルダン領のウエストバンク、さらにエジプトが守っていたガザ地区までも占領したのです。この中でも、東エルサレムにある、ユダヤ教の聖地、西の壁がイスラエルのものとなりました。ユダヤ人はイスラエル独立戦争以来行くことが出来なかった聖地へ巡礼に行くことができるようになりました。まさに、四面楚歌の状況の中で敗北を免れ、さらに、勝利したのです。