きょうは、朝から夕方まで、旧会堂も新会堂も、床のワックスがけで会堂に入ることが出来ませんでした。午後5時半に会堂にはいりました。床は凄くピカピカに輝いていて、鏡のように蛍光灯の光を反射していました。そして、いま、中2階で、11章のメールを作成しております。

この詩篇91篇は、90篇と同じように、困難の中における神による救いと解放を確信する詩となっています。かつて、イスラエルの民が、エジプトの地で守られたように、バビロンの捕囚の地にあっても守られるという信仰がテーマとなっています。

詩人が自分の確信をイスラエルの民に教えていると考えられますが、あるいは、神殿において、祭司たちが礼拝者に語り、礼拝者が祭司に応答する歌であったかもしれません。どちらにしても、この詩は、主なる神への信頼を告白する内容となっています。

神は旅人をもてなす宿の主人、あるいは、雛鳥を守る母鳥として描かれています。

主の守りは大盾のようであり、砦のようです(4節)。

7節と8節の具体的な実例は、出エジプトの出来事をあげることが出来ます(出エジプト記1223節、1430節、31節参照)。

11節と12節は、イエス様に対して、サタンが誘惑のため、引用した聖句です。イエス様は、サタンのみことばを用いての巧みな誘惑に対して、サタンを叱りつけ、勝利されました(マタイ45節―7節、10節参照)。まさに、13節の通りです。

主なる神はまず、イスラエルを愛されました。それゆえに、イスラエルの民は神を愛し、救いの御名を口にするのです(14節)。

イスラエルの民と主なる神との間には、確かな真実の約束があるのです。

私たちは、創造主の高価で尊い作品です。そして、キリストの恵みにより、キリストの尊い血潮によって代価を払って買い取られたものです。

主は真実なお方であり、決して変わることのない2重、3重の約束と誓いにより、私たちを神の子どもとして受け入れて下さいました。

そして、繰り返される主の晩餐を通して、主は、私たちをキリストの御からだと血潮に預かる者としての特権を与えて下さり、私たちに対する真実の愛と恵みを示しておられます。私たちのアイデンティティは、父なる神に愛されている神のこどもです。

私たちも、「わが避け所、わがとりで、私の信頼する神」と繰り返し、口ずさみ、神のこどもとしての特権を味わいましょう。

きょうも、主に生かされていることを喜びましょう。

暑さの厳しい折、皆様が健康でありますように、全能の主の翼の陰にあって守られますように、お祈りしております。

清宣教師