きょうは、暑くなるようですが、教会に歩いてきました。涼しい風が吹いていて爽やかでした。しかし、教会について数分しないうちに汗が出てきて止まりません。歩いている時は汗が出なくても、熱が内にこもるようです。Tシャツに着替えて、しばらくして、汗も止まりました。夏は余分の着替えも必要ですね。

さて、詩篇95篇ですが、朝、何度も感動しながら読み返しました。もう一度、読み返しても、難しい個所はなく、この詩を味わうことが出来ました。特に注解は必要ないと思いますので、そのまま、詩篇95篇を味わって下さい。

「さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。 あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。 わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。『彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。』と。それゆえ、わたしは怒って誓った。『確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。』と。」

前半は、素晴らしい創造主を礼拝をすることへの招きです。後半は、その素晴らしい創造主に対して不従順であることがないようにとの警告になっています。「地の深み」「山々の頂き」(4節)は、ふつうの人にとっては行くことも見ることもできない場所です。しかし、人の手に及ばないそのようなところも、それは創造主の御手にうちにあるのです(4節)。宇宙には数十億の数十億倍の星々がありますが、宇宙探査機の手が届くのは太陽系のほんの一部だけです。その残りの星、つまり、宇宙の星の99.99999・・・・9%は、人類の手が届かない星々ですが、それもみな創造主の御手のうちにあります。この偉大なお方は、すべての神々にまさる、大いなる王です。このお方の御声を聴くなら、躊躇することなく、ただちに、従うのが最良最善の決断です。マサ(出エジプト記171節―7節参照)やメリバ(民数記201節―13節参照)での時のイスラエルの民のように、創造主を試してはならないのです(8節)。主イエス様の模範にならって、私たちは父なる神を素直に信頼することです。人生の節目節目で、主の御声を聴くなら、素直に信じて、従うことです。さあ、きょうも、主の御前に出ましょう。「私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に膝まずこう。主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。」お昼休みの時間、この素晴らしいお方を瞑想し、主を心から礼拝しましょう。午後からの仕事のすべてを委ねて、感謝しましょう。主が、共にいて、成し遂げて下さいます。主はすべてのことを働かせて、益としてくださいます。落ち着いて、主に信頼するなら、絶体絶命の状況の中にあっても、あなたは力を得ます(イザヤ3015節参照)。

清宣教師