この詩篇112篇は、詩篇111篇の10節で告白されている「主を畏れることの幸い」を、さらに、展開しているものと考えられています。1節~9節において、真の幸せと祝福は、主を畏れること、主の戒めに喜んで従うことにあることを示しています。最後の10節で、悪者は正しい者の祝福を眺めながら死ぬことになると述べ、悪人が悪い方法で得たものは自分のものとはならない、と結論付けています。
とくに、解釈が難しい事柄は含まれていませんので、そのまま、聖書のことばを読んで味わっていただければと思います。
なお、9節の「角」とは、「力」のことであり、具体的には「地位」と[繁栄]のことです。
主を畏れる人は、主のみこころを愛し、情け深く、どんな時にも主に信頼して揺るがない人生を送ります。ここで繰り返されている特徴として、気前がよく、貧しい人々に惜しみなく与えるという特徴が挙げられています。お金がすべてを解決するというような価値観が、私たちを飲み込もうとしている世の中に生活していますが、そこで、経済的な収入(お金)の奴隷にならないためには、逆説的ですが、お金を貯め込むことではなく、貧しい人たちのために、惜しみなく分け与えることであると、解説しています。お金は、何処から来るのか、それは創造主なる神から来るということを理解することによって、納得されるものです。創造主なる神のみこころにかなう使い方をするときに、創造主なる神は御手を開いて経済的に大きく祝福して下さるということです。
今回、16日の礼拝メッセージのテキストとして、ヨブ記をとりあげましたが、ヨブは財産、家族、親友、名誉、健康など、すべてを失いましたが、主に対して愚痴を言わず、罪を犯すことをしませんでした。他方、最近、フランクルの著書の中で、ナチスの強制収容所に入れられた人たちのことを思い返す機会が与えられました。彼らもみな、財産、家族、親友、名誉、健康など、すべてを失った人たちです。しかし、その中で、決して、自分自身を失わずに、生きた人たちがいたという事実に、あらためて、深い感動と励ましを受けました。それから、身近におられる美田園仮設の方々を思いました。一瞬にして、財産を失い、家族を失い、それまで一所懸命、築き上げたものを失った方々のことです。しかし、愚痴をいわずに、仲間が支え合い、前向きに、おはなカフェの集会に参加されています。
自分自身を振り返り、真実に生きることを求めて、イエス様のもとに来た自分です。自分はどのように生きてきたのか、再び、問い直す機会が与えられました。原点に立ち返る機会が与えられたように思います。そして、再び、いのちに触れたように感じました。
清宣教師