きょうの詩篇は、救いに対する感謝の詩篇です。過去においてイスラエルが体験した解放のみわざは、主の御手によるものであったことを思い起こし、告白し、感謝を捧げています。
1節―5節では、「もしも主が私たちの味方でなかったら」と繰り返すことで、過去に体験したイスラエルの民の危機的な状況からの解放を思い起こさせ、主への信頼と感謝を深めるように勧めています。
6節―8節では、救いは神の御手によることを強調し、主への力強い信仰の告白をしています。最後の7節、8節では、鳥たちが狩人たちの罠にかけられて捕えられた時、無力な鳥たちが自力で罠から脱出することは不可能です。鳥たちの力を越えた、大きな力をもったものが、罠を壊し、籠を壊してのみ、鳥たちが解放される望みがあります。同様に、イスラエルの民たちが解放されたのは、人間の手によるものではなく、天地を創造された主の力強い御手によってのみ成就したことです。
まさに、アメージング・グイレスの歌詞を思い出します。「危険をも、罠をも、避け得たるは、恵みのみわざと 言う他なし」。創造主なる神様を知り、そのみわざを知ることは、とても大きな恵みです。
私たちは、創造主のみこころにより、この世界に生まれました。創造主のみこころにより生まれたということは、私たちがこの世に生まれる前から、創造主が計画されていたということです。エペソ人への手紙に記されている通りです。創造主なる神は、計画を持っておられ、私たちひとりひとりを生れさせたというのです。その計画の中に、私たちが創造主なる神と出逢うように、また、御子イエスの贖いに与るようにという計画がありました。私たちの人生のすべては、主のご計画の中にありました。両親の意志ではなく、創造主のみこころにより、私たちはこの世に生まれました。創造主は、いのちの息吹をもって、私たちにいのちを与え、人格を与えて下さいました。それは災いではなく、祝福の計画でした。私たちは、生まれる前から、創造主の祝福の計画の中に置かれていたのです。そして、これまでの人生のすべてにおいて、これからの人生のすべてにおいて、創造主なる神の祝福の計画の中にあるのです。なんと、幸いなことでしょう。
清宣教師