今日の詩篇も、「都上りの歌」という表題がついています。おそらく、神殿に巡礼してきた者たちに、家族の形成や町の警護や日々の労働などについて、主の恵みと臨在を教えている歌と思われます。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」
家族の形成、また、家庭の形成は、その根底に主なる神が共におられるのでなければ、いくら努力しても空しい結果となってしまうことを教えています。また、町を守るにしても、主ご自身が共にいて守ってくださらないなら 、守る者の努力もむなしい結果となってしまうことを指摘しています。主が共におられて初めて、家を形成したり、町を平和に守るための努力が実を結ぶのです。神殿での礼拝と共に日常生活の中で、主の臨在を覚えるべきことを強調しています。
「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」
私たち人間は、自分たちの力で事を成そうとして、夜遅くまで働き、朝早くから働きます。しかし、もしも、主が共にいて下さらないのなら、それは空しい結果に終わります。むしろ、主なる神に信頼して、落ち着いて、日ごとに決められた量の仕事をすることです。なぜなら、農夫が夜眠っている間に、作物は芽をだし、成長していくのです。同じように、私たちが夜眠っている間に、私たちの主なる神様が、明日の仕事の備えをしてくださるのです。人と人との出会い、仕事との出会い、いろいろな段取りを主はあらかじめ準備してくださるのです。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えて下さる」とあります。お母さんが、愛するこどもの明日の遠足のために、こどもが眠っている間に、美味しい弁当を準備しているのと同じですね。
「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。」
こどもたちは、親の意志でうまれるわけではありません。こどもたちは、「主の賜物」です。偶然の結果ではなく、親の都合でもありません。主からの賜物です。そして、その子供たちは、力強い助けとなり、勇士の手にある矢のように、共に主の使命を果たす働きをするものとなるのです。
今日の詩篇では、1節と2節で、「むなしい」「むなしい」「むなしい」と3回も繰り返されています。「むなしい」結果となるのは、主から離れて、ひとりで事をなそうとしているからです。主のみこころを知ることが第1です。「神の国と神の義を、第1に、求めよ。そうすれば、すべては与えられます」というイエス様の教えに一致することばです。まずは、働くことではなく、主のみこころを求めることです。つまり、まず、主を礼拝し、次に、主と共に仕事をはじめることですね。そうすれば、あなたの働きが実を結ぶことになります。
それでは、きょう、主の導きと守りがありますように。
清宣教師