昨日の14章では、「牛がいなければ飼い葉おけはきれいだ。しかし、牛の力によって収穫は多くなる」(14節)ということばがありました。これは、かつて、西多賀教会の人数が増えてきたときに起こった出来事でした。人数が増えるとどうしても、会堂の中にスリッパが散乱したり、イスが片付けられていなかったり、苦情が出始めました。そのとき、示されたみことばです。懐かしいみことばです。
「寄るべのない者を虐げる者は、自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。」(14章31節)のみことばも、「造り主を敬う教会」である、西多賀教会にとって大事な指針となるみことばです。創造主を敬うという信仰の告白は、貧しい人の現状を理解して支援するという具体的な行動を伴うものであると教えられます。ホームレスの人や被災者の方に対する支援は、創造主を告白する信仰の表れであると言われているのです。おそらく、この分野では、西多賀教会はさらに道が開かれていくものと思います。
今日の15章では、やはり、反意的パラレリズムが、大部分を占めています。1節では、「柔らかな答え」と「激しいことば」が対比されており、「憤りを静める」と「怒りを引き起こす」が対比されています。しかし、10節は、同義的パラレリズムが用いられています。「正しい道を捨てる者」と「叱責を憎む者」とは同義です。「厳しいこらしめがある」と「死に至る」も同義です。12節や30節も同義的パラレリズムです。
以前、西多賀教会に出席されていたO兄弟(他教会の会員)は、いつも、「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には、毎日が宴会である」(15章15節)のみことばを引用して、「毎日が宴会です」と証しされていました。そのことも懐かしく思い起こされます。
「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎みあうのにまさる。」(15章17節)のみことばも、新しい家庭をスタートした兄姉によって、よく引用されたみことばです。愛のある家庭は、何物にもまさる祝福です。互いに愛し合ってスタートした家庭が、やがて、互いに憎み合うことになってしまうのは、パラドックスです。いつのまにか、肥えた牛を求めて、最も大事なことからお互いに少しずつ、離れてしまい、気付いたときには、肥えた牛はあるが、愛が冷えているということでしょうか。
それでは、また、明日。
食欲の秋、皆様、健康が守られますように。
清宣教師