大別すると、今日の18章は、前半の15節までは、「愚か者」についての記載が多く、後半の16節以降は、「訴訟問題」についての記載が多いように思われます。
「良く聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。」(13節)のみことばは、私がよく失敗することです。短気なのか、イライラしているからか分りませんが、相手が、半分も言わないうちに、こちらであとのことばを推測して、答えてしまいます。そうすると、実はまったく、推測がはずれていて、「良く話を聞いてから返事して下さい」と言われることになります。相手が妻や娘の場合が、多いように思います。何か、慣れてしまって、自分では、相手が何を言うのか、完全に分っているつもりになるのです。結局、自分が高慢になっていたのです。ですから、13節のことばが、「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(12節)というみことばの後に来るのは納得です。とにもかくにも、謙遜に、相手の言うことを良く聞くことが人間関係の土台というか、初歩的な守るべきルールですね。
「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。」(17節)とありますが、客観的に判断するには、双方の意見を聴くことが、初歩的なルールです。しかし、ほとんどの場合、この手順は無視されてしまいます。そして、最初に訴えた人の意見に耳を傾けてしまうことが多いように思います。最初に訴えるひとは、ほとんどの場合、仲間の場合が多いので、それで連帯感も生まれるので、あまり支障がでることがないので、この弊害を自覚する機会は少ないようです。しかし、聖書は、真実を尊重しています。とくに、8節には、「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。」と記されています。仲間内のことばは、特に注意が必要です。
「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」(21節)と記されています。確かに、何を話すのか、人はその実を食べることになると宣言されています。祝福か、呪いか、それが自分に返ってくるというのです。死をもたらすことばか、生をもたらすことばか、自分自身でわきまえなければならないというのです。いのちをもたらす祝福のことばは、相手に祝福をもたらすだけでなく、実は、自分自身に祝福といのちをもたらすのです。その実を自分で食べることになるのです。そうだとすれば、自分は何を語るべきか、決まってきます。
「良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。」(22節)と記されています。良い妻を見つけることが出来るのは、主の恵みによるものです。「アーメン」ということばが、みなさんから、反響してくるように感じました。
それでは、また。
清宣教師