きょうの箴言26章は、同義的なパラレリズムが多いのが特徴のひとつです。もうひとつの特徴は、箴言全体の特徴のひとつもでもありますが、「愚か者」ということばが、11回も出てきます。旧約聖書では「愚か者」ということばは、箴言に49回、伝道者の書に18回、詩篇に3回でてくるだけです。「愚か者」を取り上げているのが、箴言のひとつの特徴です。
さて、26章では1節―12節まで、「愚か者」について、13節―16節では、「なまけ者」が主に取り上げられています。なお、17節以降も、直接「愚か者」とか、「怠け者」ということばは用いられていなくても、内容的に、「愚か者」について描かれています。

「戸がちょうつがいで回転するように、怠け者は寝台の上で転がる」(14節)。私もある時期、このことばが、ピッタリのような時期がありました。まさに、ちょうつがいで回転するような姿でした。このみことばに出会った時、あまりにも見事な表現なので、苦笑しました。振り返ると、そのようなときも、ある意味、いつのまにか、過ぎ去ったように思います。心の底から、何かをしたいという意欲に満たされていることは、感謝なことです。いろいろな困難はありますが、困難をも喜んで受けていくときに、平安の朝が明けるのだと思います。主のご計画は、霊に燃え、主に仕える生活です。

「憎しみはうまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に表れる。」(26節)。いろいろな感情をもっていても、憎しみの感情は、霊的な次元では、良くない影響をあたえます。自分としては、自分のうちに隠し持っているだけで、他の人には悪い影響は与えていないように思うのですが、やはり、霊の次元では大きな影響があり、集会全体に影響をあたえるものです。それは放射性廃棄物のようなもので、生活圏から隔離したつもりでも、やがて、悪い影響が現われます。憎しみは、はやく、イエス様の血潮によって流していただき、聖霊様の癒しによって消し去っていただく必要が在ります。

「穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石を転がす者は、自分の上にそれをころがす。」(27節)。悪意をもって、落とし穴を掘ったり、石を転がしておく者は、結局、自分がその穴に陥り、その石は自分の上に転がってきます。何故なら、すべてを見ておられる神がおられるからです。また、蒔いた種は自分が刈り取るという霊的な法則があるからです。他の人から、そのような仕打ちを受けたとしても、決して、同じように返してはならないということです。主を信じるということは、主がすべてを支配されていることを信じることです。また、主は最良最善のことを、私たちに計画しておられることを信じることです。
ではまた。
清宣教師