「伝道者の書」は、冒頭の1節の「伝道者のことば」から名付けられた物です。ヘブル語ではコーヘレス(伝道者)となっています。
新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」と名付けています。これはコヘレトを固有名詞(この場合は人の名前)として使われていると解釈したからです。
「空の空」から始まりましたが、「空」とはヘブル語で「へベル(息)」となっています。息は、現われてたちまち消え去る、はかなく、むなしいものと理解されます。伝道者の書では、「空」ということばは、34回、用いられています。それ以外では「日の下」ということばが29回、登場します。さらに、「天の下」や「地上」ということばも繰り返し出てきます。
少し脇道にそれますが、1章6節の「めぐりめぐって風は吹く。しかし、そのめぐる道に風は帰る」からヒントを得て、風にも道があるということから、偏西風の発見につながったと言われています。なお、詩篇8篇8節の「海路を通うもの」という聖句からヒントを得て、海にも道があるということで、海流の発見につながったというのも有名な話です。
1章で、伝道者は真理の探究の旅を始めます。まず、知恵と知識の探求から始まりました(1章12節―18節)。しかし、「日の下」では真の知恵を見出すことは出来ませんでした。なお、この伝道者で用いられている「日の下」ということばは、この世、つまり人間の支配する世界を意味しています。一方、「天」とは神の支配される世界を示しています。この世の哲学や宗教や学問では、真の知恵を得ることが出来ないのです。むしろ、知恵や知識が増すことは、悩みや悲しみへと連れて行くものなのです(1章18節)。
今日の2章では、人生の知恵と知識の空しさを体験した伝道者が、「快楽」の中に答えを得ようとしています(1節‐11節)。その中には、酒、事業の拡大、財産の拡大、多くのそばめをもつことも含まれていました。しかし、あらゆる快楽を求めましたが、満足はなく、空しさだけが残りました。「日の下」で自分の財産を貯え、自分のために生きても、真の幸福を得ることが出来ないのです。「天の下」つまり神のもとでの人生でなければ空しいのです。
さて、次に伝道者は「労苦」を求めました(12節―26節)。ここでは「労苦」やや「骨折り」ということばが8回繰り替えされております。しかし、「日の下」では、すべての人が結局は同じ結末、つまり、死に至ります。しかもその一生は悲しみであり、その心は夜も休まらない(23節)ということで、どうせ、死ぬなら、すべての労苦には意味がないではないか、という結論に達するのです。これは「日の下」での結論です。一方で、「天の下」では、すべての主にある労苦は決して無駄になることがありません(コリント人への手紙、第1、15章58節、黙示録20章12節)。
さて、24節―26節では、「中庸の道」が示されています。ここでは人生の意味を問うことを止めて、日々をそれなりに満足して楽しく生きようという道です。しかし、これもまた、むなしく、風を追うようなものでした(26節)。
この続き、3章、4章と味わってみて下さい。
ではまた。
清宣教師