1章2節~3章5節までは、婚約時代なので、(花婿)、(花嫁)ということばは、適当ではなかったかも知れません。
きょうの2章でも、同じように(花婿)、(花嫁)ということばを用いますが、婚約時代ということを念頭にいれて理解して下さい。
(花嫁)1節。「さふらん」はありふれた花、「谷の百合」は野生の花のこと。ここで花嫁は自分が美しいかも知れないが、華やかなエルサレムの女性たちに比べたら自分は洗練されていない一輪の野の花であると謙遜しています。
(花婿)2節。花嫁の謙遜なことばに、花婿は花嫁に対して「あなたが野の百合の花なら、エルサレムの女などは、野の「いばら」みたいなものだと、応じています。
(花嫁)3節―6節。花嫁は花婿に対して、他の若い男たちはまだ青く、花婿には到底かなわないと言い、その陰に座りたい(尊敬と信頼を表すことば)と言います。花嫁は自分が恋煩いで疲れて痩せてしまったので、干し葡萄入りのケーキとリンゴで元気づけて欲しいと願いました。「わたしは愛に病んでいるのです」。あなたが、そばにいて、わたしを抱いてほしい。
(コーラス隊)7節。これは3章5節、8章4節でも、繰り返されることばです。雅歌全体のテーマであると考えられます。かもしかや雌鹿は、純粋さや純潔を象徴しているとおもわれます。愛は揺り動かしたり、掻き立てられたりするものではなく、愛自体が目覚めるまでそっとしておくべきものであるというのです。
(花嫁)8節―15節。ただし、10節のカギカッコから15節の最後のカギカッコまでは花婿のことばを引用しています。愛する方(花婿)が誘いに来ます。そして、カギカッコのなかのことばを花嫁に語りかけます。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで」(13節)。これはデートの誘い、あるいは、結婚の招きの歌でもある。14節の[隠れ場にいる私の鳩]とは、しばし考え込む花嫁の様子をあらわしています。
(花嫁)16節、17節。これは、花婿の誘いのことばに対する花嫁の応答のことばです。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの」。しかし、今回は、花嫁は、花婿の誘いに応じなかったようです。断られた花婿は、谷間の百合の花の咲くところで羊の世話をしています。夕方には、一日の働きを終えて、私のところに来てほしい、仕事で疲れた彼ではなく、険しい山々を駆け巡る「かもしか」や「若い鹿」のように元気な彼であって欲しいと願うのでした(17節)。
それではまた。
清宣教師