昨日の1章では、イザヤ書の歴史的、地理的背景を紹介するだけで終わってしまいましたが、旧約聖書の中身を理解するためにはどうしても必要なことでした。1章は、内容的にはとても深刻で重い課題を扱っていました。ユダという国家の不信仰、不忠実に対する叱責でした。1章2節~31節で、読むほどに深く心に迫ってきます。家畜にも劣るユダの不従順(3節)。いけにえという外面的な宗教儀式による欺瞞(10節―20節)。「どうして」という強い表現で預言者の悲嘆を切々と表現しています(21節―23節)。イスラエルの神は、イスラエルとエルサレムを清めると宣言されました(24節―31節)。とくに、24節の「敵」、25節の「かなかす」という表現で、「神の民の指導者たち」を不純物としてみな取り除くと宣言されました。そして、エルサレムを清め、回復されるというのです(26節)。
さて、今日の2章では、2節の「終わりの日には」という表現で、シオンの終末の祝福を述べています。どんなに信仰的に堕落した民であっても、素晴らしい未来を約束されているのです(2節―5節)。2章6節―2章22節は、「主の日」の出来事を預言しており、イスラエルの民は、徹底的に裁かれます。罪に満ちた国として裁きを受けます。その日がどんなに恐ろしい日であるかということは、「主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて」という表現が、10節、19節、21節で、3度も繰り返されていることから、非常に強く伝わってきます。最後の結びでは、「鼻で息をする人間を頼りにするな。」と訳されていますが、ヘブル語の原文では、「頼りにするな」ではなく、単に、「やめろ」という簡潔な表現になっています。
無限の叡智をもって全宇宙、地球上のすべての生物をつくられた創造主の栄光を、「目も見えず耳も聞こえない木製などの偶像」にしてしまう、人間の罪深さを痛感します。その報いは、終わりの日に、主の恐るべき裁きとして表されます。
イザヤの預言が、いまの私たちの社会に対する預言としても、受け留めることが出来るように、そのような視点をもって学んでいきたいと願っています。
それではまた。
清宣教師