14章1節~3節では、イスラエルが再び、主の恵みにより、かつて、エジプトの奴隷の地より解放されたように、バビロン捕囚からも解放されるということが約束されています。ただし、内容的には、ペルシャのクロス王によってバビロンから解放されることを示す預言としては、スケールの点ではるかにおおきなものが含まれています。それで、世界の終末における神の民を勝利を、バビロン捕囚からの解放と同時に、二重写しに示しているのではないかと考えられています。
4節~23節は、イスラエルの嘲りの歌(4節参照)となっています。圧制者の姿が、イザヤが見た幻を通して、見事に描き出されています。世界的な大帝国であると大言壮語していた支配者たちも、死者の世界に下るとき、自分の無力さを味わわせられるのです(10節)。
なお、12節~15節の表現ですが、バビロンの王に関する表現としては、必ずしもピッタリこないので、古来から、この「明けの明星(ラテン語で、ルシファー)」は「サタン」であると解釈されてきました。「北の果てなる会合の山に座ろう」(13節)とか、「いと高き方のようになろう」(14節)という表現は、神々の頂点に君臨しようというサタンの高ぶりが示されています。しかし、最終的には、バビロンの王たちも、サタンも神の審判を受けるのです。
24節~27節は、当時、最も力のあったアッシリアを例にとり、このアッシリアさえ、主は裁かれることを預言し、バビロンへの裁きも確かなことであることを示しています。
28節~32節は、ペリシテへの宣告です。当時、反アッシリア政策をとるペリシテは、「おまえを打った杖が折られた」という表現にあるように、一時的にアッシリアの力が弱まり、平穏を保っていました。30節の「寄るべのない者たちの初子は失われ、貧しい者は安らかに伏す」とは南ユダの民を指しています。一方、ペリシテの民は、アッシリアが力を回復するにつれて、圧迫され、やがて滅亡すると預言されています(30節後半~31節)。
以上ですが、全世界の歴史は、主の御手の中にあります。アッシリア帝国、バビロン帝国、ギリシャ帝国、ローマ帝国と歴史は流れていきますが、それらのことは、ダニエル書によってすでに、預言されている通りです。私たちにとって身近な例としては、1948年のイスラエルの建国、さらに、共産圏諸国の崩壊、欧米諸国の霊的な堕落と衰退、民族間の対立、テロや戦争、同性愛や同性婚などの受け入れ、・・・など、聖書の終末に関する預言の成就と共に、主の御手の支配をも見ています。
清宣教師