昨日の30章1節―7節ですでに述べられていることですが、きょうの31章1節―3節で、再び、警告がなされています。南ユダの人々は、主に信頼しなければならないのに、エジプトの騎兵隊や軍馬や戦車に期待していることが、いかに愚かなことであるかを指摘しています。イスラエルの聖なる方が言われていることを信頼できないとは、なんと愚かなことでしょう。
4節―9節では、ここは解釈がわかれるようです。獅子とは、主を指すのか、あるいは、アッシリアを指していると考えるかで、解釈が異なってきます。そのひとつは、エジプトを信頼したユダを罰するため、獅子(アッシリア)は、つかんだ獲物(南ユダ王国)を牧者(エジプト)が来ても、手放すことをしない。主はこのようにしてエルサレムを罰する。もうひとつの解釈は、獅子は大声で威嚇しても獲物を手放さないように、万軍の主は、ご自分のもの(南ユダの民)を牧者(アッシリア)が威嚇しても手放すことはしない。万軍の主は、アッシリアと戦い、エルサレムを守られる(4節)。このようなふたつの解釈です。一応、ここでは後者の解釈とします。さて、主は、獅子のようにふるまわれると同時に、主は親鳥が雛を守るように神の民を守られます。6節では、「イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めている方のもとへ帰れ。」と呼びかけておられます。今からでも遅くない、悔い改めて帰るように呼びかけておられます。アッシリアに助けを求めた南ユダのアハズ王は、エルサレムに多くの偶像を持ち込み、ユダの民も、主を礼拝することをやめて、偶像礼拝に走りました。しかし、主は憐みにより、ご自身の力でエルサレムをアッシリアから守られました。それは「人間のものでない剣」と繰り返し、強調されています。つまり、ただ、ただ、それは主の深い憐みによるものでした。世界の歴史を審判される万軍の主が、アッシリアを裁かれるのです。最後の9節に、主は、シオンに火をもち、エルサレムにかまどを持つ方です、と言われています(9節)。神殿の祭壇の火、あるいは、トフェテの燃える火をさしているのでしょうか。主こそ、永遠の裁きの火をもたれているお方です。このお方に信頼することがすべての解決に至るのです。
きょうの個所は、私たちが、現実に、いま、目に見える権力や財力や地位をもつものに、拠り頼むことの危険性を指摘しています。創造主である神こそ、私たちが拠り頼むべきお方です。この世がすべてではありません。神の国も、目には見えませんが、存在するのです。この世は目に見える世界ですが、その背後には、目に見えない神の国が存在します。私たちは、神の国の一員とされました。私たちの存在は、この世と神の国の接点そのものなのです。私たちは、神の国をこの世にもたらす使命を与えられて、イエス様から選ばれ、聖別され、この世に遣わされた者です(ヨハネの福音書、17章18節参照)。きょう、どのようなときにも、落ち着いて、主に信頼し、まことの力をいただきましょう。
清宣教師