きょうの58章では、偽りと真の信仰が対比されています。1節―5節では、形式的な礼拝への非難のことばを伝えています。イザヤが伝えた神のことばは、イスラエルの民たち、とくに指導者たちの心に届かなかった。彼らは、主のみことばに頑なに反発し、耳を傾けようとしなかったからです。むしろ、彼らは、自分たちが主に対してどれほど熱心な民であるかと自負していました。例えば、今日の個所で指摘されていることですが、私たちは断食をしている、安息日を守っている、などという宗教的な誇りさえ持っていました。それで、主はイザヤに対して、イスラエルの罪を指摘するために、「精一杯大声で叫べ」(1節)と命じられています。彼らの断食は、頭を垂れ、荒布と灰を敷き拡げており、外面的には完璧でした。しかし、彼らの断食の真相は、主の前にへりくだるのではなく、自分自身のためであり、自分の好き勝手な生活をしているのが現状でした。
6節―14節では、祝福される歩みについて述べています。主が好まれる断食とは、自由と解放をあたえるものであり、飢えた者、貧しい人、身寄りのない人たちの痛みや乏しさを共有することであると述べています。飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させる生き方こそ(10節)、主のみこころであり、そこにはいつも光がある。また、安息日を守るとは、形式的に、主を礼拝することではなく、「喜びの日」、「はえらる日」として、心から主を喜ぶ機会とすることである、と指摘しています。そのとき、真実の主の祝福があなたを養うのであると言いました。
今日の聖書箇所は、現代の私たちも陥りやすい落とし穴を指摘しています。クリスチャンとして、主イエス様を見上げて、聖霊様の喜びと平安の中に生きるというよりも、宗教的な生き方をしてしまうことです。主日の礼拝、デボーション、祈りなどを義務化して、守ることに専念してしまうことです。つまり、自己義認のための行為になってしまうことです。こうなると、かえって、人が見えなくなります。主が指摘されていることは、そうではなく、むしろ自分を義とするための努力を捨てて、主を喜ぶこと、その結果として肉親や周囲の人たちの痛みをわかちあう生き方に導かれるというのです。
それではまた。清宣教師