最近は、イザヤ書を朗読するたびに、元気をもらいます。きょうの62章も、終末の時代(現代)における栄光と繁栄が述べられています。
1節―5節では、シオンの新しい栄光について預言されています。神の民はまったく新しく変えられ、すべての国がその大きな変化に気付き、主の義、主の栄光をシオンに見るという預言です。イスラエルは、主に愛され、支えられる民、主の喜びがある国、主を夫とする国となるのです。このことは、これまでの過去の歴史において成就してはいないので、終末時代に完成する預言であると考えられます。
6節―9節においては、主の守りが強調されています。主はエルサレムのために、24時間の見張り人を置かれます。『黙っていてはならない』(6節)と命じています。主は、エルサレムのために、右の手と力強い腕によって、悪の働きをやめさせ、真の平和と安全を達成されます。
10節―12節においては、贖い主がシオンに来ることを宣言しています。主は神の民にシオンに入る道を備え、主の旗印をかかげて、主の勝利を国々に知らせるように命じています。そして、主は地の果てまで聞こえる大声で、救いを与えると、宣言されます。そして、その救いによって、彼らは「聖なる民、主に贖われた者」と呼ばれるようになるのです。
この箇所から、私たちは、主が主の民に対して必ず約束を果たされる神であることをみます。主のあわれみと真実は変わることがありません。まえに、1日1章の続編をメールさせていただきました。今日の1日はこれまでの過去の日々とは違います。過去は過去です。新しい日は新しい主のみわざが起こる日です。あの大嘘つきのキツネに騙されないで、主のみわざを期待するものとなりましょう。私は天国の一日、一日を考えます。私は天国について昔から一つのことを確信しています。それは天国の日々は、毎日が新しい日であることです。天国の日々は、永遠です。千年、1万年、1億年・・・です。もしも、過去と同じ日々の連続なら、それは退屈して死んだ方がましだということになります。現に、ある無神論者は、そのように大言壮語して、天国などなんの魅力もないと記しました。しかし、天の御国では、1日1日が、新しく、主の恵みと栄光を知る日々なのです。新しい賛美が湧いてくるところなのです。賛美とは、歌とか楽器による奏楽とは限りません。賛美とは、あらゆる営みを含みます。新しい科学の発見も、また、賛美のひとつのあらわれです。無限の叡智と愛と聖と義と平和と・・・あらゆる善にみちた全知全能の神の御国においては、1日1日が新しいのです。過去と同じということはまったくありません。ですから、毎日が退屈で飽き飽きするということはありません。これが私の天国の日々に関して抱いてきた確信です。そうであるとするなら、どうして、この地上の日々においても、過去の日々と同じでなければならないのでしょうか。過去に閉じ込められることなく、主の新しいみわざを見る日として迎えようではありませんか。イザヤ書61章10節、「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。」という日々を体験しましょう。癒しはおこります。奇蹟はおこります。平安があたえられます。成長します。解決します。創造主に期待しましょう。
清宣教師