イザヤ書63章1節―6節は、悔い改めと救いがテーマです。
1節の問いかけは、エルサレムの見張り人が、あのイスラエルに敵対してきたエドムの地からやってくる人物に問いかけることばから始まっています。ボツラとは、エドムの主要都市のひとつと思われます。イザヤは幻の中で、このことを語っているようです。その人物は、深紅の衣服、威厳、力強さに満ちていました。それはエドムの敵将ではなく、正義を語る者、救いの強者としての主でした。ヨシュアが敵地において、抜身の剣をもった人物にあったときのことを思いださせる光景です。収穫した酒ぶねを踏むように、主は裁きを行われます。そして、主の裁きは、主の民にとっては主の救い、主の贖いの完成の時でもあります。
63章7節―64章の終わりまでが、神への嘆願をテーマとしています。主に対する賛美(63章7節)から始まり、苦境からの助けを求める祈り(63章15節―64章)へと進んでいきます。
まずは、7節―9節で、主の恵み、つまり、契約に忠実な主の愛をおぼえて、過去の主の恵みのみわざをほめたたえています。歴史的に出エジプトの出来事でそれは明らかになりました。そして、次のように記しています。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(9節)。
10節―14節においては、この恵み深い主の愛に対して、神の民は冷たい仕打ちで応答したことを指摘しています。その結果、主は彼らの敵となってしまわれました。もはや、背負っても、抱いても下さらない。主はどこに行ってしまわれたのでしょうか。「どこにおられるか」「どこにおられるか」(11節、13節)と2回繰り返すことにより、反逆の民の絶望を表現しています。
15節―64章12節において、神への嘆願が述べられています。しかし、ある聖書の仲介者は、この祈りの言葉には真実の悔い改めを見出すことが出来ない、と指摘しています。神学的によく整った祈りの形にはなっているが、形式的な礼拝を捨てて、主のみこころにかなう信仰の道を進むという決意が見当たらないと言います。「天から見下ろしてください」と言い、彼らが神の民であることを強調して、主に助けを求めています。その注解者は、この祈りはイエス時代のパリサイ人の祈りに通ずるものであると考えています。(私自身は、これらの祈りが偽善的な祈りかどうか、なかなか、判断が難しいです。自分もこのような祈りをしているからかも知れません)。
以上ですが、今日の中には素晴らしいみことばが含まれていました。9節のみことばです。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」。いつも、共におられる主を覚えて、心に喜びをもって、きょうの1日を過ごしましょう。
清宣教師