このイザヤ書64章を、新約聖書におけるパリサイ人の偽善的な祈りを解釈する方もおられますが、私も3度、繰り返して読みましたが、なかなか、そのような判断をすることは難しいと思いました。偽善的な祈りと解釈する方は、これらの全体を「苦しいときの神頼みの祈り」と解釈します。もうひとつは、直後の65章の1節―7節において、「反逆の民」と呼び、主が厳しい態度で、応答されていることを根拠に上げています。つまり、64章の祈りは、偽善的な祈りであったので主は厳しい態度で応答されたに違いないと考えるのです。もし、64章の祈りが真実な祈りであれば、そのような応答を主がなさるはずがないと考えるのです。
確かにそのように考えることも可能ですが、一応、私はそのまま、悔い改めの祈りとしてみることにします。主の来臨の時の、裁きの光景が描かれています(1節―3節)。「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」という告白を中心に自分たちのこれまでの生き方を告白しています(4節―7節)。その中で、原点に立ち返って、主がどのようなお方であるかを覚えて告白しています。「いま、あなたは私たちの父です。私たちは粘土です。あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」そのことを土台として、主が主の民に目を留めて下さることを切に求めています(8節―12節)。
偽善的な祈りか、真実の祈りであるかは、むしろ、主の応答を聞いた者がこのあと、どんな生き方をしたかによって明らかになると考えます。偽善的な祈りであれば、祈りが聴かれないと言って、主から離れてしまいます。しかし、真実の祈りであれば、主が語られた事の深い意味を考えて生きる道を選択すると思います。しかし、その判断をする材料は残されていません。