「イスラエルよ。もし帰るのなら・・・」「もし除くなら・・」ということばで、ヨシア王の宗教改革によって外面上は悔い改めた様子を見せる民たちに対して、内面の真実と公義と正義によって、それを示すように求めています。そうでなければ、長続きせず、内面の腐敗により、真の解決が遠ざかるからです。形式的な割礼、形式的な儀式は、神の前に無益であるどころか、忌み嫌われるものなのです。私たちも、聖書のみことばに精通していても、イエス様が最も厳しく糾弾した偽善のパリサイ人や律法学者になってしまわないように、きょう、主は私たちに語りかけて下さっています(1節―2節)。
「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。」と命じられています。これは、日本の創造論宣教の創始者である宇佐神正海先生が主から与えられた聖句でした。日本の宣教という未開墾の地に福音を蒔くには、まず、進化論というイバラを取り除くことが必要であるということを悟ったのです。種は、良く耕された畑や田に蒔かれる時、はじめて、豊かな実を結びます。しかし、日本には進化論と言うイバラが生えているので、そのまま、福音の種を蒔いても無駄になります。こうして、進化論を取り除き、良い耕地とするための創造論宣教が始まったのです。私たちの心の中にあるイバラとは進化論だけではありません。お金さえあれば何とかなるという考えや世に属するさまざまな考えが、私たちの心に、はびこっています。そのイバラを取り除くことです(3節)。
エレミヤは、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と宣言しました(4節)。新約聖書では次のように記されています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ人への手紙2章28節、29節)。「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」(コロサイ人への手紙、2章11節)。クリスチャンという名前ではなく、主なる神の前に今ある真実の姿が本当の自分です。自分の古いいのちが十字架につけられて、自分のふるいいのちがキリストと共に墓に葬られているか、問われます。聖霊様をお迎えすることが心の割礼です。
残りの部分(5節―31節)は、そのような頑ななユダとエルサレムに向かって、神の審判が告げられています。全体として北からのバビロン軍の強力で敏速な破壊性をさまざまなことばで表現しています。エレミヤは神の預言者であり、見張り人としての役割を与えられていました。ですから、好むと好まざるとにかかわらず、語れと神が命じたことは語らなければなりません。たとい自分の国の滅びの宣言であったとしても、それが大きな苦しみを伴うものであっても語らなければなりませんでした。19節―21節は、そのエレミヤの心の痛みです。「私のはらわた、私のはらわた。私は痛み苦しむ。・・・」しかも、それにもかかわらず、指導者も民たちも、耳を傾けて聴こうとしない。エレミヤの役割は、なにかとても空しい役割に感じます。しかし、主はエレミヤを立てられました。エレミヤはまさに、主の代言者の役割を果たしていると感じます。私たちも、この時代、この日本にあって、救いの福音を語っても、多くの人は無視します。しかし、私たちは、主のこころを表現しているのです。だからこそ、語り続けます。
清宣教師