今日は、エレミヤ書5章です。ユダの民は、自分たちは神の民であるから裁きを受けるはずがないという発想をしていました。しかし、主は、外側ではなく、心の内面、生活の実際を見ておられます。「主は生きておられる」(2節)とは立派な信仰の告白ですが、ことばでは誓っても実際の生活が伴わなければ主は受け入れることをしません。ユダの民が「主は生きておられる」という告白をすることによって、あたかも、主は心の内面や生活の中身を見ることが出来ない神であると証ししているのです。信仰の告白のようにみえて、真逆の証しをしているのです。このような生き方を、到底、主が受け入れられるはずがありません。主は公義と真実を求めている者を探し求めておられるのです(1節―2節)。
主のみこころを理解しない民であり、指導者たちも悔い改めようとしないのです(3節―5節)。そこには必ず、主の裁きがあるのです。彼らは裏切り、背信の民であるにもかかわらず、主を否み、主にたてつくのです(6節―13節)。主はバビロンを呼び寄せ、南ユダを裁くための器として用いられます(14節―19節)。被造物は、創造主の命令に従い、主がもとめられるルールに従うべきなのですが、創造主なる神を知っていると言いながら、従おうとしない頑なな民に語りかけています。個人だけでなく、社会全体が主のみことばに背いているのです(26節―31節)。最後の31節において、「その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。」と記されています。エレミヤの心の痛みの叫びです。預言者は、先見者とも呼ばれていました。今起こっている事柄の先まで見ることができる人でした。なぜ、なぜ、なぜ、主の警告を無視するのか、エレミヤにとって、ユダの民や指導者たちの厚顔無恥な態度にあきれると共に、深い悲しみを抱いているのです。なぜなら、神様の裁きが避けられない状況に、みずから、追い込むことを行っているからです。一方で、「その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。」という叫びの中に、それでも愛される神のいつくしみも表されているのです。エレミヤも、そして、主も、決して、ユダの民たちを見放しているのではなく、無関心でありえない、そこからほとばしる叫びなのです。
話は変わりますが、以前、教会の合同礼拝で、小さな砂粒について、こどもたちに語ったことがあります。砂粒は本当に小さな小さな存在です。しかし、荒れ狂う波に対して、砂粒は陸地が浸食されることがないように守っているのです。小さな砂粒です。しかし、無数の砂粒が、波の動くままに、完全に委ねて、波のなすがままにさせているのです。それが、波の力を弱めて、陸地を浸食しないようにしているのです。一方、大きな岩はどっしりしていますが、波をまともに受けています。短期間では大丈夫ですが、長い時間の間に、波の力をまともに受けることにより、次第に浸食されていくのです。小さな砂粒に秘められた創造主の知恵を覚えます。「わたしは砂を、海の境とした。越えられない永遠の境界として。波がさかまいても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。」(5章22節)。
きょうも、主を畏れ、主に感謝します。
清宣教師