きょうの個所は、預言者エレミヤの率直な疑問が述べられています。「なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのか」。神は聖であり、義なる方であるにもかかわらず、正しい者、弱い者が苦しむのを放っておかれるのか。そのことで論争したいというのです。もちろん、主なる神が正しいということは決して変わることがないことを知ってはいるのですが、それでも、いやそれだからこそ、ひとつのことをお聞きしたいのです(1節)。
「なぜ」(1節)、「いつまで」(4節)という疑問です。わたしたちも、クリスチャンとして信仰の道を歩むときに、熱心になればなるほど、このふたつのことばが出てくるように思われます。ここで、「悪者」「裏切りを働く者」「彼ら」と表現されているのは、エルサレムの住民であり、ユダの民であり、神の民と言われている人たちです。私たちはどうしても、自分が主人公となり、自分が納得しないとそれはおかしいと思い、何もしらされていないとプライドがゆるさず、さらに、時間をも支配しようとして、自分が勝手に定めたタイムリミットを過ぎると怒りが爆発する存在であるように思います。神様の計画と自分の計画が一致しないと、神様の計画に疑問をもってしまうような存在ですね。
さて、主はエレミヤに答えられました。「あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競争できよう」(5節)。つまり、競争にならないことをしようとしているというのです。私たちは新幹線と競争しようとしても、ホームで出発したばかりの時はまだ追いつけますが、それ以上は絶対に無理です。そのように、これから主がなさることは、最初は少し理解したつもりでも、それ以上のことはとても理解することは出来ないのです。これから起こる事は、神の神殿の破壊、聖都エルサレムの崩壊、神の民の捕囚という、もはや人の想像を絶する裁きが訪れるのです。そして、やがて、ユダの民を侵略した民たちも、裁きをうけるのです。
しかし、ユダの民でなくても、ユダの民と同じように、心から真実をもって創造主を礼拝するなら回復される時が来ると、主は約束されています。神の民も、異邦の民も、真実をもって主に立ち返るなら救われ、無視するなら、神の民であれ、異邦の民であれ、裁きをうけるのです。主は主権をもって、全世界の民を裁かれるお方です(14節―17節)。
「どうして騎馬の人と供応できよう」と言われている通りです。エレミヤの時代、神の御計画は進行中なのです。そのあとのことです。神のひとり子イエス・キリストがこの地上に来臨されて、全人類の罪を背負われて、十字架の上で罪の贖いを成し遂げられ、墓に葬られてのち、復活され、昇天されます。そして、全世界に証し人を派遣され、それから、主は再び、来臨されて、全世界の人々を裁かれます。そして、永遠の新天新地へと救われた民を導き入れられます。私たちの質問や疑問を遙かに超えた完全な解決を、主は備えておられます。
主は無限の叡智をもって、全世界を創造され、全宇宙を保持されておられます。きょう、主の御名をほめたたえます。主の御手の中で生かされていることを感謝します。きょう、主にあって、祈り、喜び、感謝します。主の御計画は最良最善であり、また完全であることを信じます。
清宣教師