1節―6節は、前章の14節―15節に続く部分です。エレミヤは神殿の庭に立ち預言をしました。「聖都エルサレムが異教徒バビロンによって破壊され、神の選民イスラエルが捕囚となってバビロンに連れ去られる」というような預言は、当然、当時の政治の指導者たち、また、宗教指導者たちから非難を受けるだけでなく、民たちからも非難され、エレミヤは非国民、偽預言者としてレッテルをはられて、迫害されたのです。神の真のことばを語るエレミヤは、曲がった邪悪な時代にあって、孤独でした。
7節―13節は、そのような状況の中で、エレミヤが神に訴える告白です。一日中、民たちの物笑いとなっている現実があります(7節)。それでは口をつぐむことができるかというと、神のことばが、心のうちで骨の中に閉じ込められて、燃え盛る火のようで、心の中に閉まっておくことが出来ないのです。悪意ある者たちから非難や悪口を言われるのは耐えられるのですが、親しい者たち、身内や、アナトテの同郷のひとたち、神に仕える同労者たちからの悪口、裏切り、非難のことばは、耐え難い苦痛をエレミヤにもたらしたに違いありません。しかし、「主は私と共にあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまづいて、勝つことは出来ません。」(11節)と告白しています。ここで、エレミヤは葛藤の中から、勝利への道を選択したのです。
14節―18節では、再び、生まれたことへの嘆きのことばがつづられています。7節―13節の内面的な葛藤の上でのエレミヤの嘆きのクライマックスが表現されています。四面楚歌の孤独の中で、主の預言者として召されたエレミヤの働きについて、私たちはいま、そのエレミヤの苦悩のきわみへと導かれます。まさに、神の御子イエス様が、ゲッセマネの園で血の汗を流して祈られた時のような苦悩をエレミヤが負っていたことを示唆しています。
いま、このような苦悩を担っているのは、共産圏やイスラム圏で伝道している宣教師や現地の牧師たちです。激しい迫害と圧迫の中で、働いています。日本の私たちは、神のことばを委ねられていますが、迫害されるような状況にはありません。しかし、世の終わりには全世界的な迫害があることも預言されています。
どうか、私たち一人一人が、迫害の中にある兄弟姉妹のために祈ることが出来ますように。また、私たち自身が、日本の国がどのように変わろうとも、主のみことばに堅く立って生きることが出来ますように。共にお祈りしたいと思います。
清宣教師