今日の個所は、全体的には全イスラエルの回復ですが、長い個所なので、大きく分けてみます。まず、1節―22節は、北イスラエルの10部族の回復の預言です。残りの23節―26節が、南ユダの2部族の回復の預言です。最後の27節―40節は、北イスラエルと南ユダの全部族(12部族)の回復の預言となっています。
1節の表現は、この章全体のタイトルと考えられます。イスラエルのすべての部族の回復の宣言です。イスラエルは、出エジプト以来、主に愛されてきました。まさに、3節で、主が言われているとおりです。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」こうして、イスラエルの全ての民は、主の真実の愛をもって愛されてきたのですが、イスラエルはその神に対して背を向け、偶像礼拝の罪に陥り、あらゆる不義をもって満たしました。その結果として、敵国での捕囚の身となりました。しかし、主はその背信の罪にもかかわらず、契約をまもり、「おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建てなおされる。」と宣言されました。エルサレムは、再び都となり、国もまた祝福と喜びに満ちあふれるまでに回復されるのです。(4節―6節)。弱い者も、妊婦も産婦もみな、平和のうちに、回復されるのです(7節―9節)。
余談ですが、私は40数年前、教会生活の中で、激しい頭痛を覚える時がありました。そのとき、このエレミヤ書の31章7節の『主よ。あなたの民を救って下さい。イスラエルの残りの者を』という個所を読むと、ピタリと頭痛がおさまることを経験しました。それは一度ならず、ある期間、何度も同じ体験をしました。他の聖句では効果はなく、このことばを読んだときだけ、頭痛が去るのです。ですから、いやおうなしに、このことばを口ずさむことになりました。それは、当時の教会の会衆のための執り成しの祈りをするようにとの、主の御計画であったと思っております。。
それでは本題(10節―)に戻りますが、イスラエルの民が、捕囚から回復されたのは、その喜びを全世界の諸国の民に告げ知らせるためでもありました。ですから、「諸国の民よ。主のことばを聞け」(10節)ということばで始まります。諸国の民は、主の恵みを知るのです(10節―14節)。15節―22節では、あの悲惨な苦しみと悲しみと涙の経験をしたけれども、主は、「泣く声をとどめ、目の涙をそどめよ。」(16節)といわれます。なぜなら、すべてが回復されるからです。
23節―26節では、南ユダの町々も、回復を遂げます。主が「わたしが疲れたたましいを潤し、すべての萎んだ魂を満たすからだ」と約束されたからです。そして、27節―40節では、北イスラエルと南ユダはもともと、ひとつの国であったように、ひとつとなるのです。そして、もはや主の律法の教えから離れることがないように、新しいことがなされます。以前は、イスラエルの民は石の板に書かれたモーセの律法を読んで守ろうとしましたが、これからは、心の中にその律法を書き記されるというのです。「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(33節)。こうして、二度と、契約が破られることはないように回復されるのです。エルサレム郊外の、あの汚物捨て場であり、忌まわしい人身犠牲の場であった死体と灰との谷(ベンヒノムの谷など)も、すべて聖くされ、すべてが回復されるのです(38節―40節)。
今日の個所は私たちひとりひとりにも大切なことを教えています。創造の神は、同時に回復の神です。素晴らしい創造の御業を知る時、一方で、私たちの現実の世界が著しく損なわれていることも見ます。なぜ、そのように損なわれてしまったのか、それは私たち人類の罪のゆえです。しかし、創造主は、わたしたちに対する不変の愛をもって、私たちを回復するために、この地上にこられました。そして、人類の罪を贖って下さいました。天に戻られてのち、私たち一人一人に聖霊様を遣わされました。私たちの心の中に、神様のみこころを行うことができるように、真の助け手(パラクレイトス)として聖霊様を遣わされました。私たちもいま、回復の途上にあるのです!!!ハレルヤ。
清宣教師