今日から、哀歌に入りました。哀歌は古くから「エレミヤ哀歌」として知られてきました。しかし、哀歌の本分にはエレミヤが著者であるとの記述はありません。ただ、歴代誌第2、35章25節には、「エレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。そして、男女の歌うたいはみな、今日に至るまで、彼らの哀歌の中でヨシヤのことを語り、これをイスラエルのために慣例としている。これらは哀歌にまさしくしるされている。」と書かれていることから、エレミヤは哀歌をつくる心得があったようです。また、エレミヤ書9章1節には、「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。」と記されています。これは哀歌2章11節や3章48節、49節の表現によく似ています。このようなことから、哀歌の中に、著者のことは直接言及されていませんが、昔からエレミヤの哀歌として伝えられてきたようです。哀歌の特徴のひとつに、詩文形式として「キーネー調」と呼ばれる哀悼歌調をとっており、ヘブル詩の平行法の技巧とか、アルファベットの文字隠し(日本的にいえば、いろは歌)というような技巧を取り入れて、歌いやすくなっているということです。儀式用のためとも考えられています。本書は、哀歌であると共に、神への祈りの歌ともいうことができる内容をもっています。
1章ですが、冒頭のことば「ああ」と訳されていますが、ヘブル語の原語では「エーカー」と記されています。日本語では「哀歌」という書名がつけられていますが、ヘブル語の聖書の書名は「エーカー」となっています。「この町」(1節)とは、エルサレムの事です。ソロモン王の時代には、栄華を極めた宮殿と輝くばかりの神殿があり、神の都として、当時の世界の中心として栄えた町でした。しかし、偶像礼拝の中に堕落していった末路は、バビロンのネブカデレザルが率いる軍勢によって占領され、度重なる南ユダの王たちの裏切りによって、宮殿も神殿も町の家々は皆焼かれて、いまは廃墟となり、悲惨な姿を現しています。この昔と今の対比が嘆きとなり、哀歌となって歌われています。かつての輝きはみな消え去りました(6節)。その廃墟の中に、神の裁きを受けた姿が浮き彫りにされているのです。バビロン軍の包囲の中、エルサレムの市内では、食料が底をつき、自分のこどもさえ食べるという地獄のような苦しみを味わいました。「自分の宝としているものを食物に代えています。『主よ。私が、卑しい女に成り果てたのをよく見て下さい。』」(11節)。ここでは、「私」とは、エルサレムの町を、「私」という表現で、第1人称として、エルサレムを自分自身として、神の前に訴えています。「道行くみなの人よ。よく見よ。」(12節)と世界中の人に呼びかけています。主の民が、主を捨てた結果、このような結末を得るという実物教訓として見て欲しい。自分たちのような背信の者にはなって欲しくない、そのようなメッセージしか発信できない自分(エルサレム)なのです。主は正しいお方です。主が南ユダの民たちをバビロンに捕囚とされたことも、みな主の正義の結果なのです(18節)。主は正しいことをなさいました。私(エルサレム)が主に逆らい続けたから、このような刈取りをしているのです(20節)。しかし、このようにしたバビロンを覚えて、彼らに報復して下さい(22節)という祈りで閉じています。
エレミヤ書を通して、わたしたちは、南ユダの頑なさを見てきました。そして、その最後の姿も見てきました。そこで、「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。」(エレミヤ書9章1節)と叫ぶ、エレミヤの姿が目に浮かびます。いまの私たちは、何をしたらよいのでしょうか。ひとつは、私たちの国である日本の針路のために執り成し祈ることであると教えられます。また、私たち自身の信仰のリバイバルを求めて祈ることであると考えます。
清宣教師