明日は、哀歌の5章です。「主よ。私たちに起こったことを思い出してください。私たちのそしりに目を留めてください。顧みてください。」という祈りで始まります。それから、次から次へと、自分たちの窮状を主に訴えます。最後の20節―22節において、「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。」という祈りのことばで結んでいます。神に迫る、悔い改めと赦しを求め、回復を願う祈りとなっています。(この祈りは、バビロン捕囚後、70年の時が過ぎる頃、主によって応えられ、南ユダの民は捕囚の地から約束の地へ帰還する道が開かれました)。
明後日は、エゼキエル書1章です。「エゼキエル」という名は、「神が強めて下さる」という意味です。紀元前597年、エホヤキム王がバビロンへ捕囚となった時、エゼキエルは一緒にバビロンへ連れ去られました。それはエルサレム滅亡の11年前のことです。エゼキエルはそれから5年後(2節参照)に、1章に記されている劇的な体験をして、神からの召命の声を聴いて預言を始めました(2章1節―3節)。1章1節に出てくる「第30年」が何を表すのかはっきりしませんが、ある注解者は、エゼキエルの年齢と考えています。エゼキエルは「ケバル川」のほとりで、幻を見ました。ケバル川とはユーフラテス川と繋がっている人工的な運河と思われます。26節から28節の描写については、出エジプト記24章10節にも同じような描写があります。また、新約聖書の黙示録の中で、使徒ヨハネがみた光景(黙示録4章2節―4節)も似ています。主ご自身に関する描写と思われますが、使徒ヨハネも、同じような御姿を見ています(黙示録1章14節、15節)。
一方、エゼキエル書1章5節―25節に描写されている4つの生き物に関しても、黙示録4章6節―8節にも登場します。神に仕える存在です。1章10節に記されている「獅子」、「牛」、「鷲」、「人間」については、いくつかの説がありますが、その中の一つは、獅子は獣の王として、牛は家畜の王として、鷲は鳥たちの王として、人間は被造物の王として、用いられているのではないかと言われています。ただ、この4つの生き物に関しては、ここにある以上に詳しい記述はないので、心にとどめておくことにして、先へ進みましょう。
それでは、来週の火曜日、see you.
清宣教師