「人の子よ」という表現が出てきます(2章1節)。これはエゼキエル書には90回以上出てきますが、他にはダニエル書8章17節に出てくるだけです。「人の子」という表現は、人間の弱さや、はかなさを主が理解しておられる上での呼び掛けと考えられています。「・・・の子」とは、「・・・の性質をもつ」という意味です。神の恐るべき力と人間の弱さを対比する表現と思われます。(なお、参考までに記しますが、旧約時代と新約時代の中間時代には、「人の子」とはメシヤを意味するようになりました。)捕囚の民のひとりに、いま、全能なる主が目を留めて下さっているのです。主は、霊をもって、ひれ伏しているエゼキエルを立ち上がらせてくださいました。あるいは、神のことばは、エゼキエルのうちに入り、彼の霊を強めて立ち上がらせたという理解もあります。これから主が遣わそうとしているイスラエルの民は反逆の民でした。4節の直訳は、「顔が固くて」「心が頑なな」です。「顔が固くて」とは恥知らずで自分の罪にも平然としている様をいい、「心が頑なな」とは、かたくなで罪を認めようとしない状態をあらわすことばです。主はその民たちの中にエゼキエルを遣わそうとされているのです。「神である主はこう仰せられる」といって神のことばを告げる預言者としての召命をうけました(4節)。そして、主はエゼキエルに対して、言い訳をしたり、辞退する機会をほとんど与えていません。捕囚の民が、エゼキエルに対して、冷たい仕打ちで答えるとしても、「彼らや彼らのことばを恐れるな。・・恐れるな。…ひるむな」(6節)とたたみかけて励ましています。ともかくも、彼らが聞いても聞かなくても、主のことばを語るように命じられました(7節)。そして、主は、エゼキエルに対して、「あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ」と命じられました。それから、主は、手を伸ばして、エゼキエルに一つのの巻き物を与えられました。そこには、表にも裏にも文字が書かれており、哀歌と嘆きと悲しみが記されていました(9節、10節)。ある注解者は、表にも裏にもびっしり文字が書かれていたという描写について、預言者自身によるいかなる加筆の余地もゆるされていなかった、と理解しています。
それでは、また。
清宣教師