明日の7章は「終わりが来た」という預言です。イスラエルの全地に終わりが来たことを告げる預言です。この預言は、実際にエルサレムが陥落する3,4年前に語られていることになります。ユダの指導者も民たちも、自分たちは神の選民であり、エルサレムは神の都であるという錯覚により、偽善的、形式的な主への礼拝を悔い改めることなく、安穏な暮らしをしていましたが、それゆえに神の裁きをうけることになるのです。預言の通り、エルサレムの神殿は破壊され、ユダの民は、剣、疫病によって倒れ、残された者もバビロンの捕囚の民となります。
明後日の8章は、最初に幻が与えられてから14カ月後、この頃にはエゼキエルは、捕囚の民たちの中で、預言者として認められて尊敬され、捕囚のユダの長老たちも、エゼキエルの家に相談に来ていたようです(8章1節)。ところで、エルサレムの神殿とは、主の宮、天地万物を創造された唯一の神を礼拝するための場所でした。しかし、いま、エゼキエルが幻のうちに見せられた光景は、恐るべき邪悪な偶像礼拝の幻でした。神殿の北向きの門の内側には、ねたみの偶像(おそらくアシェラの女神)が設置されており、神殿の隠れた部屋では、70人の長老たちが、ワニやヘビなどを描いたエジプトの神々を拝んでいました。また、タンムズの神を拝んでいる女たちがいました。また、主の神殿の一番奥まったところで、25人ほどの人たちが太陽を礼拝していました。イスラエルの礼拝の中心的な場所であった神殿(主の宮)ですが、そこが、もろもろの異教の神々への偶像礼拝の場所となっていたのです。
私たちは、聖霊の宮と呼ばれています。聖霊が住まわれる場所です。しかし、いつのまにか、偶像礼拝の場に変質してしまう恐れがあります。お金があれば万事うまくいくはずだという思い、未来への恐れ、さまざまな恐れが、この世の神を礼拝するように誘惑します。つねに、心の一新によって自分を変える必要が在りますね。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ人への手紙、12章2節)。