昨日の9章の神の裁きを実行する6人の死刑執行人(御使いたち)の場面は消え去り、あの亜麻布の衣を着た御使いだけが残っています。そこにケルビムと、その頭の上の大空にサファイヤのような王座のようなものが現われました。主は、亜麻布の衣を着た人(御使い)に、「ケルビムの間の炭火を、両手いっぱいに満たして、それをエルサレムの町の上にまき散らすよう」命じられました。ケルビムは神殿の入り口に移動し、主の栄光もケルブの上から上り、神殿の敷居に向かいました。そのとき、主が亜麻布の衣を着た者(御使い)に対して、車輪の間、ケルビムの間から火をとるように命じました。そして、ひとつのケルブが、二つのケルビムの間にあった火をとって、亜麻布を着た者(御使い)の両手に盛りました。そして、その亜麻布を着た者は出て行きました。エルサレムの町の上に、その火をまき散らすためでした。9章では、亜麻布を着た御使いは、救われる者たちの額にしるしをつけて、執り成しの働きをしました。しかし、今回は、エルサレムの町の上に、火をまき散らして、神の裁きを実行する働きでした。実際、エルサレムはバビロンのネブカデレザルの命令により、町全体が火で焼き尽くされてしまいます。この亜麻布を着た御使いについて、その名前は記されていません。
さて、エゼキエルは、ケルビムの描写を続けていくうちに、それがかつてケバル川のほとりで見た「生き物」(エゼキエル書1章13節―25節参照)に、良く似ていること、むしろ、同じものであることを気づきました。そして、10章15節に、「それは、私がかつてケバル川のほとりで見た生き物であった。」と記しました。さらに繰り返して、10章20節、22節においても、「彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生き物であった。」と記しています。エゼキエルは、祭司であったので、ケルビムの姿を神殿の幕などで見ていたと思われます。それで、神殿とケルビムを結びつけることは容易なことであったと思われます。しかし、ケバル川のほとりのような場所で現われたので、初めて見る「生き物」として、描写したのであろうと思われます。10章に入って、神殿で真のケルビムの姿を見て、ようやく、かつて、ケバル川のほとりで見た生き物との共通点を見出し、最終的に、ケバル川で見た生き物と、神殿のケルビムが同じものであるという判断が出来たようです。
ケルビムは、旧約聖書の中で最初、創世記3章24節に登場します。ケルビムの意味は、祝福する、とりなす、力づよい、などと関連をもっている言葉です。ケルビムの役目は、聖所の付き添い、守護者としての役割でした。神と人との住まいであるエデンの園の守り(創世記3章24節)、ソロモンの神殿の守り、そして、未来の神殿の守り(エゼキエル書41章18節―20節)にも登場します。ケルビムはまた、その上に神が座しておられる御座の役割を果たす生き物であると想像されます。例えば、詩篇18篇10節では、「主はケルブに乗って飛び・・」と表現されています。ところで、ケルブとケルビムの違いですが、ケルブは単数形、その複数形がケルビムです。ひとつのケルブがふたつになると、ケルビムと表現します。しかし、エゼキエル書1章の生き物の描写と10章のケルビムでは違う点もみられます。例えば、1章では雄牛の顔が、10章ではケルブの顔になっています。これについては、エゼキエルが主に願って、雄牛の顔をケルブの顔に代えてもらったという伝承が残っています。
さて、ついに、主の栄光は、神殿の出入り口から出て、ケルビムの上に留まりました。その後、11章23節に記されているように、主の臨在は、そこから、エルサレムの東の山へと移動します。ゆっくり、主の臨在が、神殿から、そして、エルサレムの町から去っていかれるのです。
清宣教師